【ATPファイナルズ特集】



年末に行われるATP最終戦ATPワールドツアーファイナル(以下ATPファイナルズ)
この第5のグランドスラムともいうべき大会を取り上げてみたい。



【大会の仕組み】

大会はその年の最終戦として行われる。
参加者は8名。その年の成績上位の選手が出場権を獲得する。
現在は、その年のグランドスラムで優勝すれば、
ランキングと関係なく無条件で出場できるという条件も加えられている。

試合は、4人ずつ2グループに分けられ、
それぞれのグループで総当りの予選リーグ(ラウンドロビン:RR)を行い
成績上位2名が準決勝へとコマを進める。あとは普通に準決勝決勝が行われる。
短期決戦なので試合は3セットマッチで行われるが、決勝だけは5セットマッチとなる。
※2008年から決勝も3セットマッチになった。

ドロー128に及び2週間かけて行われるグランドスラムとは趣が違うが、
年間成績の優秀な選手のみ出場可能であり、ランキングも上位の選手しか出場しないので
安定感と直接対決の強さ、その両方が求められることになる。
ここでの戦いはグランドスラム以上に真の王者の資質が問われるものだと言っていい。


《歴史》
ATPファイナルズは時代によって呼び名も変化しているが、その本質は変わっていない。
常に上位選手が集められ頂上決戦が行われる大会として開催されてきた。
そのスタートは1970年、最初の開催地は東京であった。

しかし、始めのうちは上位選手の全員が出たわけではなかった。
初期にはその年のトップランカーが欠けた状態での開催というのもあった。
主な理由は選手側と大会側との確執によるものであるとされている。

また、今でこそRR&ベスト4という形で定着している試合形式だが、
トーナメント形式での開催という時期もあり、
またドローが現在の8ではなく12や16のときもあった。

開催時期も、年末でなく翌年の年始に行われるときがあった。
コート種類はカーペットが多いが
ハードコートのときや グラスコートのときもあった。

現在では非常に権威ある大会であり、
多くのトップ選手がグランドスラムと同列に扱っているのだが、
今の形に定着するまで随分と紆余曲折もあったのだ。


《グランドスラムカップ》

90年代に開催されていたグランドスラムカップという大会がある。
余談になってしまうが、現在のATPファイナルズを語る上で
その存在は無視できないものであるため、あえて取り上げることとする。

グランドスラムカップは、
その年のグランドスラムで活躍した選手を集めて行われる大会として開催された。
ATPファイナルズに似たコンセプトだが、ランキング上位者が集められるのではなく
グランドスラムでの活躍に限定されていたという所がポイントだった。
この大会は通常のATP大会ではなく、ITF主催の大会だった。

グランドスラムカップも年末に開催された。時期はATPファイナルズの更に後だった。
賞金は高額だったが、ATPランキングポイントとは関係なく、
しかも本来なら休暇に当たる時期に開催されたので選手たちにえらく不評だった。
キャンセルする選手もいたがそれには罰金が科せられた。

何故このような大会が行われたのか?

その頃、男子プロの運営はATPが完全に主導権を握っていた。
ランキングもATPが発表し、選手は常にそのポイントを意識しながら大会に出場した。
しかしグランドスラムのみはITFの主催だ。
ITFとしてはその権威に自負があり、ATPへの対抗心からこのような大会を開催したのだった。

その後開催時期を早め全米後の9月に移された(1997年から)が
最後までランキングには関係のない大会であり、
ATP側では長い間エキシビジョン扱いでしかなかった。
その後両者が和解したのか、現在ではATPも正式大会として認めている。

プロテニス界は2000年にトーナメント大改革が行われ、
その際にグランドスラムカップはATPファイナルズに吸収されることとなり、
名称もマスターズカップとなった。
グランドスラムの優勝者はその成績が優先されて出場権を獲得できるという部分に
かつてのグランドスラムカップの名残りを見て取ることができた。

更に2009年には再度の改革があり、名称はATPワールドツアー・ファイナルとなった。
これによりグランドスラム優勝者が優先的に出場権を得るという制度はなくなり、
純粋にポイントでの出場権争いへと変わった。




【記録】

《ATPファイナルズ全記録》
優勝準優勝場所コート方式ドロー備考
1970スミスレーバー東京カーペット総当り6No.1ニューカム不参加。
1971ナスターゼスミスパリカーペット総当り8No.1ニューカム不参加。
1972ナスターゼスミスバルセロナカーペットRR8ニューカム、ローズウォール不参加
1973ナスターゼオッカーボストンカーペットRR8 
1974ビラスナスターゼメルボルングラスRR8No.1コナーズ、No.4レーバー不参加
1975ナスターゼボルグストックホルムハードRR8No.1コナーズ不参加
1976オランテスフィバックヒューストンカーペットRR8上位3名コナーズ、ボルグ、ナスターゼ不参加
1977コナーズボルグニューヨークカーペットRR8翌年1月の開催
1978マッケンローアッシュニューヨークカーペットRR8翌年1月の開催
1979ボルグゲルライティスニューヨークカーペットRR8翌年1月の開催
1980ボルグレンドルニューヨークカーペットRR8翌年1月の開催
1981レンドルゲルライティスニューヨークカーペットRR8翌年1月の開催
1982レンドルマッケンローニューヨークカーペット勝抜き12翌年1月の開催
1983マッケンローレンドルニューヨークカーペット勝抜き12翌年1月の開催
1984マッケンローレンドルニューヨークカーペット勝抜き12翌年1月の開催
1985レンドルベッカーニューヨークカーペット勝抜き16翌年1月の開催
1986レンドルベッカーニューヨークカーペットRR8 
1987レンドルビランデルニューヨークカーペットRR8 
1988ベッカーレンドルニューヨークカーペットRR8 
1989エドバーグベッカーニューヨークカーペットRR8 
1990アガシエドバーグフランクフルトカーペットRR8 
1991サンプラスクーリエフランクフルトカーペットRR8グランドスラムカップが開催される
1992ベッカークーリエフランクフルトカーペットRR8 
1993シュティッヒサンプラスフランクフルトカーペットRR8 
1994サンプラスベッカーフランクフルトカーペットRR8 
1995ベッカーチャンフランクフルトカーペットRR8 
1996サンプラスベッカーハノーバーカーペットRR8 
1997サンプラスカフェルニコフハノーバーハードRR8 
1998コレチャモヤハノーバーハードRR8 
1999サンプラスアガシハノーバーハードRR8 
2000クエルテンアガシリスボンハードRR8マスターズカップとなる
2001ヒューイットグロージャンシドニーハードRR8 
2002ヒューイットフェレーロ上海ハードRR8 
2003フェデラーアガシヒューストンハードRR8 
2004フェデラーヒューイットヒューストンハードRR8 
2005ナルバンディアンフェデラー上海カーペットRR8 
2006フェデラーブレーク上海ハードRR8 
2007フェデラーD・フェレール上海ハードRR8 
2008ジョコビッチダビデンコ上海ハードRR8 
2009ダビデンコデル・ポトロロンドンハードRR8ATPワールドツアーファイナルとなる
2010フェデラーナダルロンドンハードRR8 
2011フェデラーツォンガロンドンハードRR8 
2012ジョコビッチフェデラーロンドンハードRR8 
2013ジョコビッチナダルロンドンハードRR8 
2014ジョコビッチフェデラーロンドンハードRR8決勝はフェデラー棄権のため不戦勝だった
2015ジョコビッチフェデラーロンドンハードRR8 
2016マレージョコビッチロンドンハードRR8 
2017ディミトロフゴファンロンドンハードRR8 
2018ズベレフジョコビッチロンドンハードRR8 
2019チチパスティエムロンドンハードRR8 
2020メドベージェフティエムロンドンハードRR8 
2021ズベレフメドベージェフトリノハードRR8 
2022ジョコビッチルードトリノハードRR8 
2023ジョコビッチシナートリノハードRR8 

大会初期には運営側との問題でランキング上位にも関わらず不参加という選手がいた。
備考欄にその主な選手をリストアップした。その後も不参加の選手はいるが、
いずれも怪我や私的な理由によるものであり少々事情が違うので割愛した。

以下、データは2023年終了時点。※赤字は現役

《優勝&準優勝数(決勝進出2回以上)》
名前優勝準優勝勝敗勝率
ジョコビッチ 7 2 50-18 73.53%
フェデラー6359-1777.63%
レンドル5439-1079.59%
サンプラス5135-1471.43%
ナスターゼ4122-0388.00%
ベッカー3536-1373.47%
マッケンロー3119-1163.33%
ボルグ2216-0672.73%
ヒューイット2113-0572.22%
アガシ1322-2052.38%
スタン・スミス1213-0668.42%
エドバーグ1118-1456.25%
ダビデンコ1112-0860.00%

2023年の優勝でジョコビッチが優勝回数単独トップになった。
フェデラーが6回で次点、更にレンドル、サンプラスが5回で続いている。
4回優勝のナスターゼは出場した年全てで決勝に進出している。
準優勝の最多はベッカーの5回。


《勝率(出場2回以上)》
名前勝率
ナスターゼ22388.00%
レンドル391079.59%
フェデラー591777.63%
ジョコビッチ 50 18 73.53%
ベッカー361373.47%
ボルグ16672.73%
ヒューイット13572.22%
サンプラス351471.43%
ゴットフリード7370.00%
スタン・スミス13668.42%
マッケンロー191163.33%
シュティッヒ5362.50%
コレチャ5362.50%
アッシュ8561.54%
ダビデンコ12860.00%

ナスターゼが非常に高い数値を残している。
出場試合数を考えると、続くレンドルフェデラーの数字も素晴らしい。


《勝利数(15勝以上)》
名前勝率
フェデラー591777.63%
ジョコビッチ 50 18 73.53%
レンドル391079.59%
ベッカー361373.47%
サンプラス351471.43%
ナスターゼ22388.00%
アガシ222052.38%
ナダル 20 16 55.56%
マッケンロー191163.33%
エドバーグ181456.25%
コナーズ181751.43%
ボルグ16672.73%
ビラス161159.26%
マレー 16 11 59.26%

ランキング上位者が集結するATPファイナルズで多くの勝利を収めるのは至難の業であろう。
30勝以上を挙げている上位5人は、トップ同士の対戦において比類ない強さを見せ付けたということになる。
中でもフェデラーが歴代最高の数字を記録している。


《出場年数(7回以上)》
No名前出場年
1フェデラー17
2 ジョコビッチ 16
3アガシ13
4レンドル12
5コナーズ11
 ベッカー11
 サンプラス11
  ナダル 11
9マッケンロー9
 エドバーグ9
11ビラス8
  マレー 8
13ビランデル7
 チャン7
 カフェルニコフ7
 D・フェレール7

ATPファイナルズは出場するだけでも大変な大会である。
出場年数が多いということはそれだけ長くトップに君臨したということになる。
さすがに一流の顔ぶればかりが並んでいる。
またコナーズは全盛期の3年を不参加としているのが惜しい。


《試合数(20試合以上)》
No名前試合数
1フェデラー76
2 ジョコビッチ 68
3レンドル49
 ベッカー49
 サンプラス49
6アガシ42
7 ナダル 39
8コナーズ35
9エドバーグ32
10マッケンロー30
11ビラス27
  マレー 27
12D・フェレール26
13ナスターゼ25
 カフェルニコフ25
15チャン23
  ズベレフ 23
17ボルグ22
18オランテス20
 ダビデンコ20
  メドベージェフ 20

試合数は、出場回数が多いのは勿論だが、勝ち続けなければ増えることはない。
この数字が多いというのは、すなわち多く勝利を収めたということにもなり
出場年以上に重要な数字であると言えるかもしれない。

ハロルド・ソロモン、モヤ、ロディック、ベルディフと現役のティエムが19試合でほんの僅か届いていない。
過去2度優勝経験のあるヒューイットは意外にも出場自体が少なく(4回)試合数は18となっている。



【主要選手の成績】

《ナスターゼ》

出場回数は5回とそう多くないが、その全てで決勝に進出し、
しかも優勝4回というATPファイナルズ史上最高の成績を収めた。
しかし出場した大会のほとんどで、ニューカムコナーズといったNo.1選手が欠けていたことも事実であった。
1976年はランキング3位であったにも関わらず不参加。
それ以降は出場権を得るには至らず、大会黎明期の記録のみを残す形となった。
ナスターゼはその名前のわりにはグランドスラム優勝が2回と少なく
実力よりも下に見られがちな選手ではあるが、当時現在ほどの評価ではなかったとはいえ、
この大きな大会で他に類のない活躍を見せたことでその名誉を保つことができているといえるだろう。

《レンドル》

勝利数、勝率、出場試合数と全てのデータを判断した場合、
イワン・レンドルはATPファイナルズ史上最強級の選手と言っていいだろう。
出場は実に12回。その全てで準決勝に進出しているというのは脅威であり、
更に9年連続決勝進出、優勝も最多の5回と実に見事な成績を収めている。
80年代中頃はトップ選手がシードされる形式だったため試合数が少なくなる傾向にあったが
それでも最多試合数となっているから如何に勝ち続けたかがよくわかる。
トップ同士の直接対決でもダントツに強かったレンドルの面目躍如たる数値だ。

《サンプラス》

優勝5回はレンドルと並び2位タイ。
やはりトップ同士の直接対決に非常に強かったことがわかる。
準優勝は1回だけなので決勝にも強かったということがわかるが
裏を返せば早期敗退も多かったということになる。
勝率はもちろん高いが最強というものではなく、そこもサンプラスらしいと言える部分かもしれない。
サンプラスの強さは、集中しきったときにこそ発揮されるものなのである。
それでも出場11回は流石で、長年にわたって王者に君臨していたことの証明となっている。

《ベッカー》

常に最強候補に挙げられる選手であるにも関わらず、
データからは万年2位の印象が拭えないベッカーだが、ここでもその本領(?)が発揮されている。
優勝3回は立派だが、それ以上に準優勝5回という最多の数値が印象的である。
準優勝5回のうち、2回がレンドル、2回がサンプラスに敗れてのものというのも象徴的といえるだろう。
万年2位とはいえその力は見事で、勝率ではサンプラスを上回っており、
各選手との直接対決でも比類ない強さを発揮したことがわかる。
何故年度末1位になれなかったのだろうか。

《テニス界の重鎮:アガシ、コナーズ》
 
意外にもアガシコナーズの成績は平凡なものになっている。

アガシの13回出場はフェデラーに抜かれるまで最多であった。
出場するだけでも大変なこの大会においては立派な記録であるといえるが、
早期敗退も多く、また2005年には1試合に出場したのみで棄権してしまっているなど試合数が幾分欠けているのが特徴だ。
準優勝は3回あるが、優勝は若い頃の1回だけである。

一方のコナーズも出場11回は立派だが、
最も強かった1974-76年の3年間をスキップしているのが大きく、
優勝は1回のみであり、勝率もアガシ同様50%強でしかない。

《フェデラー》

21世紀に入り、テニス界における記録という分野を大きく改変してしまったのはフェデラーだ。
ここでも歴代最高級の偉大なる記録を叩き出し、史上最高選手の名を欲しいままにした。

《ジョコビッチ》

フェデラーに続き記録分野に更なる革新をもたらした選手こそジョコビッチである。
優勝回数ではフェデラーを抜き、ここでも歴代最強選手としての面目を見事に保っている。


《出場数の多い選手》


エドバーグは9回の出場があり、優勝1回、準優勝も1回している。
長年上位にいた選手として充分な数字だが、勝率は56%でしかなく
ライバルと目されたベッカーと比べると随分見劣りするデータとなっている。


ビラスは8回の出場があり、1回優勝している。
唯一グラスコートで行われた年に優勝している点で注目だ。
しかしこの年はコナーズが不参加であった。

   
7回出場のビランデル、チャン、カフェルニコフの3人は
いずれも優勝はなく準優勝が1回あるのみであり、勝率も残念ながら5割を切っている。

これらの選手たちは長年に渡る安定した活躍はしたものの
トップ同士の直接対決ではそれほど強くなかったといえるだろう。


《意外な優勝者》
ATPファイナルズは、ほぼ毎年本命かそれに順ずる選手が優勝する傾向にある。
やはり強い選手が勝つ大会である。
しかし稀に、グランドスラムほどではないにしても意外な選手が優勝することもある。
シュティッヒ、コレチャ、オランテス、ダビデンコの4人はこれに当てはまる選手ではないだろうか。


シュティッヒは僅か2度の出場であったが、
最初の出場では3戦全敗、2度目では5戦全勝という驚きの活躍を見せた。
しかしこの選手の場合は、コート適正もあったので
まだ大番狂わせとまではいかない結果だったといえるのかもしれない。


コレチャも同じく僅か2度の出場であったが、
いずれもカーペットではなくハードコートで開催されていた時期に当たる。
コレチャのカーペットの生涯勝率は32%と恐ろしく低いので、
運も味方したといえるのではないだろうか。


オランテスの場合は前2者とは少し違う。
勝率こそ5割を切っているが出場数は6回とかなり多く、ATPファイナルズの常連であった選手だ。
しかし、クレー巧者であったためカーペットは生涯勝率45%と苦手にしており、
その中での優勝だったので相当意外なものであったと言えるのは事実だろう。
もっとも、オランテスが優勝した1976年は、ランキング上位3名
すなわちコナーズ、ボルグ、ナスターゼを欠いての開催であった。


2009年にはダビデンコが優勝した。イメージ的にはオランテスに近い選手である。
出場回数は5回と多くいわば常連選手であったが、トップ選手との勝負に強いというイメージはなかった。
しかしながら2008年の準優勝、2009年の優勝と2年連続の快挙は立派である。
特に2009年はそれまで11度の対戦で一度も勝てなかった天敵フェデラーから
勝利を上げての優勝であるからその価値は大きいだろう。


クレー巧者の苦戦》
ATPファイナルズは、歴史上のほとんどがカーペットでの開催である。
ほとんどのクレー巧者にとってカーペットは苦手とするコートである。
コレチャオランテスの例外もあるが、 歴代のクレー巧者は随分と苦労している。

《クレー又は全仏で活躍した選手の成績》
名前勝敗勝率
ナダル21-1853.84%
モヤ10-0952.63%
フェレーロ06-0650.00%
クエルテン05-0645.45%
ゴメス05-0838.46%
D・フェレール08-1430.77%
コデス05-1229.41%
ガウディオ02-0528.57%
ラミレス04-1225.00%
クレルク02-0625.00%
ブルゲラ02-0722.22%
ソロモン04-1521.05%
ムスター02-0820.00%
コスタ01-0420.00%
ノア01-0614.29%
ルコント01-0614.29%
コリア01-0712.50%

   
クレー巧者とはいえ近代的なプレーを見せた
モヤ、フェレーロ、クエルテンがかなりの善戦をみせている。
この3人が出場していた頃は、カーペットではなく
ハードコートで開催されていた時期に当たるので、それも幸いしてると言えるだろう。
クレー巧者にとってはカーペットよりハードのほうが戦いやすいからだ。
しかし、それでも勝率50%がやっとという数字なのだが。

もっともクエルテンの場合は、
優勝の経験もあり、その年のランキング1位にもなっているため、
イメージからすると50%をきる勝率でしかないほうが意外なのかもしれない。


ダビド・フェレールが健闘を見せている。
流石に勝率は高くはないが、試合数も多く十分な戦いぶりであろう。


《黎明期》
ATPファイナルズが始まったばかりの頃は、1度だけ登場して活躍した選手などもいた。
こういった選手たちは勝率にするとかなり高いデータを残しているのだが
試合数が少ないので参考にならず記録には含めなかった。
例えばロッド・レーバートム・オッカー4勝1敗(80%)という数字である。


スタン・スミスは、ナスターゼと共に初期のATPファイナルズで最も活躍した選手であり、
優勝1回、準優勝2回、13勝6敗(68.42%)と見事な数字を残している。


またブライアン・ゴットフリードも出場3回と試合数は多くなく、
決勝進出もしていないが10勝3敗(70%)という数字を残している。



【ATPファイナルズ史の名勝負】

最後に、ATPファイナルズ史に残る名勝負をいくつか取り上げてみたい。

《1981年決勝:レンドルvsゲルライティス 「6-7 2-6 7-6 6-2 6-4」》

 

1981年は、5度の優勝を数えるレンドルが最初に優勝した年に当たる。
大会自体は翌1982年1月に開催された。

この年のゲルライティスはランキング9位であったが、
ボルグが前年で引退したため急遽出場権を獲得しての登場だった。

ゲルライティスはどのコートにも強く、常に上位にいる実力者という評価は不動であったが、
同時に常に最強選手達に阻まれ続けたきた選手であった。
しかしこの時は、ボルグは引退、コナーズは早期敗退、
マッケンローも準決勝でレンドルに敗退と絶好のタイミングを得ての決勝進出であった。

試合はゲルライティスが2セットアップ、更に第3セットタイブレークとなり
マッチポイントも握るという勝利目前の展開となった。
ほぼ勝利を手中に収めたかに思えた場面だったが、
そこからレンドルの神がかり的なショットが炸裂し、終わってみれば奇跡の大逆転劇となっていた。

ゲルライティスは、またもや最強選手に阻まれることになってしまったのである。

レンドルといえば、最初のグランドスラムが2セットダウンからの逆転であったことで有名だが、
最初のATPファイナルズでも2セットダウンからの逆転勝ちであったのだ。


《1988年決勝:ベッカーvsレンドル 「5-7 7-6 3-6 6-2 7-6」》

 

9年連続決勝進出という大記録を作ったレンドルの最後の決勝となった試合。

この時のベッカーは長くグランドスラム優勝から遠ざかっており、復活が待たれる状態であった。
一方のレンドルは更にそれよりも悪く、怪我のため3ヶ月も試合を休んでおりランキングもトップから滑り落ちていた。
そのような状態で勝ち上がった2人だったがATPファイナルズ史上屈指とも言える名勝負を見せたのである。

ATPファイナルズ決勝での両者の顔合わせは3度目だった。
過去の二度はいずれもレンドルベッカーを寄せ付けずにストレートで圧勝していた。

しかしこの時は違った。試合は立ち上がりからハイレベルな打ち合いとなり、
ストローク戦でもベッカーは打ち負けなかった。
両者共にスーパーショットを連発し、これでもかと見所の詰まりきった試合となった。

試合はファイナルセットタイブレークにまでもつれ込み、
最後のポイントは30回以上のラリーの末、ネットに当たった球が
レンドルサイドにポトリと落ちるという衝撃的な結末となった。

ベッカーはこの勝利で年間7勝目を達成した。
意外にも1988年の7勝というのはベッカーの年間最多優勝数であった。


《1996年決勝:サンプラスvsベッカー 「3-6 7-6 7-6 6-7 6-4」》

 

この年は既にベテランとなっていたベッカーが最後の花を咲かせた年であった。
その前に立ちはだかったのは、もはや絶対の王者となっていたサンプラスだった。

両者はこの年、ラウンドロビンで一度戦っていた。
その時は、ベッカーが地元開催ということもあり、観客の強力な応援をバックに
「7-6 7-6」と2度のタイブレークを制して勝利していた。

決勝では、ラウンドロビンの勢いそのままに、また観客の声援という大きな後押しもあって、
ベッカーが立ち上がりから絶好調のサーブを披露、 200km/h超のエース連発でサンプラスを圧倒した。
第1セットはそのままの勢いでベッカーが取ったが、その後はサンプラスも引かず、
試合はがっぷり四つで展開され、90年代を象徴する素晴らしいサーブ&ボレーの応酬となった。
5セットのうち、途中3セットがタイブレークとなったので、
ラウンドロビンも合わせれば両者は1週間で5回のタイブレークを戦ったことになる。

気合いの入ったベッカーのプレーも印象的だったが、
それ以上に、ほぼ全ての観客がベッカーに味方する中で、
ただ淡々と試合をこなすサンプラスの集中力は見事という他なかった。

ファイナルセット、サンプラスは素晴らしいバックハンドパスを炸裂させ、 遂にベッカーのサーブをブレークした。
その瞬間、それまでの淡々とした表情から一転、高らかに雄叫びを上げたその姿は今も忘れることができない。
正に王者の一撃ここにありというシーンだった。


《2005年決勝:ナルバンディアンvsフェデラー 「6-7 6-7 6-2 6-1 7-6」》

 

2005年も非常に印象的な大会であった。

この時、既に無敵の存在となっていたフェデラーだったが、
直前に怪我をしており約1ヶ月のブランクを余儀なくされていた。

大会が始まると2人はまずラウンドロビンで対戦した。
その時はフェデラー「6-3 2-6 6-4」で勝利したが、
フルセットにもつれ込んだ展開に、やはり怪我の影響があるのではという意見も囁かれた。
結局フェデラーはラウンドロビンを全勝で勝ち上がったものの全てがフルセットという戦いであった。

ところがその後、この心配を一転させる事態が起こる。
準決勝でフェデラーガウディオを相手に「6-0 6-0」という、
長いATPファイナルズ史上でも初となる快挙で勝利を収めたのだ。

決勝の相手はラウンドロビンで勝利しているナルバンディアン
既に調子を取り戻したフェデラーの敵ではあるまい。
誰の目にもフェデラーの勝利は確実であるかのように映った。

しかし試合はもつれにもつれ、フェデラーが最初の2セットをタイブレークで取ったものの
その後息切れを起こし、結局ファイナルセットタイブレークという壮絶な展開でナルバンディアンが勝利を収めた。

2セットダウンからの大逆転劇を演じたナルバンディアンの優勝は
かつてのシュティッヒコレチャに匹敵するような伏兵の優勝に当たるのかもしれない。

しかしこの勝利は、
フェデラーの連勝記録、そしてマッケンローに並ぶ年間最高勝率のいずれをも阻んだことになり
テニス史上の記念碑的な勝利ともなったのである。


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