【1812年大砲聴き比べ解説全文】


●はじめに
 序曲「1812年」変ホ長調 作品49は、チャイコフスキー作曲による演奏会用序曲である。
1812年の戦いでロシア軍がナポレオン率いるフランス軍を撃退した様を描写しており、
演奏の終盤で大砲が用いられることで知られている。


●作曲の背景
 1880年、友人であるニコライ・ルービンシュタインの博覧会のために作曲された。
当初、チャイコフスキーはこの作曲に乗り気ではなかったが、
ニコライ本人からの催促でその気になり、作曲開始から1ヶ月で完成させた。

 初演は不評であったが、チャイコフスキー本人の指揮による
再演では賞賛を浴びそれ以後人気曲として定着していった。
ただし敗戦が描写されるフランスでは滅多に演奏されることはない。


●曲について
 最大の聴かせどころである「大砲」は曲の終盤に登場する。
導入が難しい通常の演奏会では大太鼓で代用されることも多い。
またシンセサイザーを使った演奏などもある。

大砲の聴き比べに行く前に簡単に曲の概要について解説しておきたい。
※主題の分け方は解釈によって様々なのでここでの分類はあくまでも一例である。


●序奏:ロシア民衆の嘆き
 曲はロシア聖歌の引用で開始される。
これは「ロシア民衆の嘆き」を表していると言われる。


 ♪トラック1:アバド指揮/ベルリン・フィル
 チャイコフスキーの楽器指定はヴィオラとチェロだが、
ロシア聖歌をそのまま引用しているため合唱で代用することも可能である。

 ♪トラック2:アシュケナージ指揮/サンクト・ペテルブルク・フィル
 合唱を用いた録音にはカラヤン盤、マゼール盤、アシュケナージ盤などがある。
それぞれでも違いがあり、カラヤン盤は聖歌を全て合唱に歌わせているが、
マゼール盤、アシュケナージ盤は一部楽器を重ねている。


●主題1:ロシア軍の行進


 ♪トラック3:カラヤン指揮/ベルリン・フィル
 小太鼓に導かれる軽妙な音楽で、ロシアの行軍を表している。


●主題2:戦闘の主題

 ♪トラック4:ドラティ指揮/ミネアポリス交響楽団
 急速な下降音による焦燥感のある音楽。戦闘の開始が告げられる。


●主題3:フランス軍の主題


 ♪トラック5:デュトワ指揮/モントリオール交響楽団
 フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」が引用されフランス軍の接近が描写される。


●主題4:ロシア民衆の祈り

 ♪トラック6:ゲルギエフ指揮/キーロフ歌劇場管弦楽団
  チャイコフスキーらしい緩やかで美しい主題で民衆の祈りが登場する。


 これらの主題が絡み合い戦闘の様子が描写されていく。
 曲全体を聞く場合にはこれらの主題を頭に入れておくとよりわかりやすくなるだろう。


●終結部
 激しい戦いは次第にロシア軍がフランス軍を押し始め、遂に決着がつく。
大砲の発射は全部で16発あり、大きく2つの部分に分けることができる。
第一回発射の5発と、第二回発射の11発である。


●第一回の大砲発射:ロシア軍の勝利

 ♪トラック7:カンゼル指揮/シンシナティ交響楽団
 フランス軍を撃ち破る場面で5発の大砲発射が行われる。
遂に戦闘が終結となり、音楽は勝利の描写へと移行する。


●序奏の回帰:勝利

 ♪トラック8:ストコフスキー指揮/ロイヤル・フィル
 序奏のロシア聖歌が再び奏されるが、
もはや暗い嘆きはなく高らかな勝利の讃歌として現れる。
「鐘」が導入されるのがこの部分の特徴である。

♪トラック9:マゼール指揮/ウィーン・フィル
 冒頭で合唱を用いている演奏のうち、マゼール盤とアシュケナージ盤はここでも合唱を使用している。


●大砲聴き比べ
  さて、いよいよメインイベント、クライマックス「11発の大砲発射」を
全12種の演奏で聴き比べてみることにしよう。それぞれ最終部分の約1分を全て収録した。
 曲はロシア軍の行進の主題に導かれ、ロシア帝国国歌と大砲、鐘が高らかに奏される。

 ♪トラック10:ドラティ指揮/ミネアポリス交響楽団
 録音:1958年
 録音に映画用磁気テープを使い、高音質にこだわったことで話題となった名盤である。
大砲や鐘の音が大きくそして華々しく収録されている。
大砲は陸軍士官学校から借りたもので、その型番や出自が演奏者と共にクレジットされている。
実際の大砲の音を使用するという例に先鞭をつけた記念碑的録音である。
オーケストラは表情豊かではないが名指揮者ドラティの下ピシリとまとまった演奏を聴かせている。
この演奏が一番好きだという人も多いのではないだろうか。

 ♪トラック11:カンゼル指揮/シンシナティ交響楽団
 録音:1978年
 こちらも音質への徹底的なこだわりを見せたことで知られる歴史的な名録音である。
大砲は兵器博物館から借りたものを使用し、ステレオ効果で収録されている。
発売当時は大砲部分のLPの溝を幅広く使ったことで話題となり、
「大音量でスピーカーを壊さないように」という注意書きまで添えられた。
オーディオマニアはこの大砲を如何にリアルに再現できるかを競い合ったという。
オーケストラよりも大砲を聞くための盤ともいえるが、
この1枚で演奏者とレコード会社(テラーク)の知名度は一気に上がることとなった。

 ♪トラック12:ストコフスキー指揮/ロイヤル・フィル
 録音:1966年
 オーケストラの魔術師ストコフスキーによる快演である。
大砲が登場するはずの部分で急なオーケストラのフェードアウトがあり唐突に合唱が登場する。
驚きの演出だが、いかにも電気処理であり、好悪の分かれるところであろう。
また最終部分ではオーケストラが感情を込めて音をうんと引き伸ばし、
鳴り止んだ後も鐘の音だけが残るというオマケ付きで、終始度肝を抜く演出である。
やや過剰なようにも感じるが、これこそが一世を風靡したストコフスキー・マジックなのである。

 ♪トラック13:カラヤン指揮/ベルリン・フィル
 録音:1966年
 20世紀音楽ファンがこれでもかと聴かされてきたカラヤンサウンドがふんだんに味わえる演奏。
大砲は残響が長めで、それほど大きな音では収録されていない。
通常、この手の録音は大砲の砲手や録音技師のこだわりが前面に出てしまうのだが、
この盤はあくまでも指揮者カラヤンのトータルプロデュースの下
オーケストラ演奏を邪魔しない前提で作られているのが特徴である。
かといって音に対するこだわりは捨てておらず、長めの残響が大砲の迫力を充分に伝えている。
重厚で優れたオーケストラの響きも含め、総合的に判断すれば、
あらゆる場所でベスト盤と評価されるのも納得の名盤だ。

 ♪トラック14:マゼール指揮/ウィーン・フィル
 録音:1981年
 全編においてウィーン・フィルの美演が味わえる演奏。
大砲はカラヤン盤のようにオーケストラを邪魔しないような音量で収録されている。
指揮者マゼールは、若い頃や老境に入ってからは非常に刺激的な演奏を聴かせるのだが、
これが録音された80年代は正統派を意識しすぎていて大人しい演奏が多かった。
この演奏もマゼールらしい凄演とはなっていない
。しかし改めて聴いてみると安定したオーケストラドライブが特徴で、
何よりもウィーン・フィルの美演が聴けるという点で価値のある1枚と言えるだろう。

 ♪トラック15:デュトワ指揮/モントリオール交響楽団
 録音:1985年
 シンセサイザーを用いたことで話題となった演奏。驚きの電子音が聞こえる。
大砲にのみ合成音を使用しているのならまだしも、
旋律を弾かせるのにも使用しているためかなり異質な演奏となっている。
この曲はフランスでは演奏されないが、
フランス楽団以上にフランス的な演奏をすると言われるこのコンビの演奏は、
それ故に貴重なフランス型演奏の代表であったのだ。
しかもシンセサイザーが登場する前の
オーケストラ演奏に関してはカラヤン盤にも匹敵するほどの充実さを誇っているのだから、
電子音さえ我慢できれば、という非常に惜しい演奏となっている。

 ♪トラック16:アバド指揮/シカゴ交響楽団
 録音:1990年
 シカゴ響の非の打ち所のないビシッと決まったブラスセッションが聴ける。
大砲は迫力不足で少々気の抜けた音になっている。
恐らくは大砲ではなく小銃を用いたのであろう。
アバドの冷静沈着な指揮とオーケストラの整いきった響きも相まって少々味気ない印層を与えている。
ただオーケストラの演奏は抜群にうまい。

 ♪トラック17:アバド指揮/ベルリン・フィル
 録音:1994年
 アバドがオーケストラをベルリン・フィルに変えて行った再録音盤。
シカゴ盤に比べると少し表情の豊かさが出ている。特に弦楽器の響きがすばらしい。
大砲の音は恐らく大太鼓に機械処理を加えたものだろう。
シカゴでの無機的な小銃の音を再現するくらいならばシンプルに大太鼓を選んだのは正解と言える。
もっとも、どうせであれば機械的な処理もせずナチュラルな大太鼓の音だけでよかったとも思えるが。
アバドの指揮は基本的に同じで、ここでも終始冷静さを失っていない。
劇的ではないかもしれないが逆にそれが曲を細部まで良く捉えており、
曲を知るために最初に聴くに好適な一枚といえるだろう。

 ♪トラック18:ゲルギエフ指揮/キーロフ歌劇場管弦楽団
 録音:1993年
 ここからはロシア人指揮者の演奏を取り上げる。
まずは現在のロシアで最も重要と言えるゲルギエフとキーロフのコンビから。
大砲はオランダの軍楽隊のものを使用しており、ドラティ盤のような本物志向の音となっている。
収録の音量は控えめでオーケストラを邪魔しない程度に抑えられているのはカラヤン型であるといえる。
また最終部分で和音を非常に長く引き伸ばすのはストコフスキー張りの感情の入れ方であり、
先達の演奏から多くの要素を取り入れた非常に意欲的な表現となっている。

 
♪トラック19:アシュケナージ指揮/サンクト・ペテルブルク・フィル
 録音:1996年
 指揮者、オーケストラ、軍楽隊、そして合唱団と全てがロシア尽くしで行われた演奏。
大砲の出現と共に合唱も登場する。この部分の合唱はストコフスキー盤と同じだが、
こちらは機械的なオーケストラのボリュームダウンなどは行わず自然と演奏に参加させている。
最も多く合唱が登場する盤であり、冒頭や中間部など聖歌の登場する部分全てで合唱を用いている。
ロシア的な側面を可能な限り強く押し出した演奏と言えるだろう。

 ♪トラック20:ゴロワノフ指揮/モスクワ放送交響楽団
 録音:1946年
 知る人ぞ知るロシアの怪物指揮者による爆演。
大砲の出るはずの部分で全く聴きなれない音楽が登場して衝撃を与える。
当時ソ連では、この部分で引用されている帝政ロシア国歌の演奏が禁止されていた。
そこで、これを別の曲に置き換えた「シェバーリン版」といわれる異版が作られた。
因みに置き換えられたのはグリンカの歌劇「イワン・スサーニン」の「皇帝に捧げし命」という曲である。
このゴロワノフ盤はシェバーリン版である上に、戦後まもなくの古いモノラル録音であり、
演奏会の模様をそのまま収録しているために観客の咳も入っているなど
現在では異端扱いされているのだが、実は演奏そのものは凄まじい。
ロシア的な荒々しい金管の咆哮や畳み掛けるテンポ変動など一聴の価値ありの名盤である。
この曲のファンならば一度は聴いておくべきであろう。

 ♪トラック21:シモノフ指揮/ロイヤル・フィル
 録音:1994年
 今回の聴き比べ最後を飾るのは、ストコフスキー、ゴロワノフに匹敵するシモノフの爆演だ。
大砲の音は楽譜を無視した乱れうちで、しかも花火まで上がるというとんでもないお祭り騒ぎとなっている。
最後の終始でも大砲の最強音を伴うなどいかにもやりたい放題と言う感じで
現在の貴重な怪物指揮者シモノフの面目躍如たる演奏といえるだろう。
この盤は最後の乱痴気騒ぎに目を奪われがちであるが、
実はオーケストラの演奏も充実しており、そこだけ聴けば普通に名演であるというのもまた凄い。


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