【対決!ペリーvsバインズ】
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フレッド・ペリー(Fred Perry)とエルスワース・バインズ(Ellsworth Vines)。
両者は共に1930年代にトップに上り詰めたプレイヤーだ。
1930年代は、ちょうどテニスのプロツアーが盛んになった時期だった。
プロツアーは1920年代後半に開始され、リチャーズやコジェルフというトップ選手を生み出し、
1930年にはテニス界の大御所チルデンもプロに転向した。
プロ選手はアマチュア大会への出場は認められていなかったから、
テニス界は、グランドスラムを中心としたアマチュア界と、
プロ興行によるプロテニス界とで明確に二分化されるようになった。
【1930年代のテニス界】
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当時アマ最高の選手であったチルデンは、1930年にプロ入りするとプロでも最強の選手となった。
その時既に37歳であったが、衰えを知らぬ活躍ぶりであった。
さて、チルデンの抜けたアマテニス界には、
バインズとジャック・クロフォード(Jack Crawford)という2人の選手が登場した。
両者とも1931年に最初のグランドスラムタイトルを取ると、
1932年にはバインズがウィンブルドン、全米を取ってアマ最強選手となり、
翌1933年には今度はクロフォードが全米以外のグランドスラム3タイトルを獲得してアマ最強の座を奪い取った。
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1933年のクロフォードは16大会で優勝と言う記録的な活躍を収めた。
戦後ならまだしも、戦前にこれだけの大会をこなすのは極めて異例のことだった。
翌1934年にはバインズがプロ契約をして、アマテニス界を離れることになった。
ライバルがいなくなり、クロフォード時代が到来するかに思われたが
クロフォードが最強であったのは1933年の1年だけだった。
直後にフレッド・ペリーが登場したのである。
ペリーは、クロフォードが1933年に唯一逃した全米で勝利した選手だった。
そして1934年にはペリーがクロフォードに代わってグランドスラム3タイトルを獲得し、
完全に王座を逆転させた。
ペリーはその後2年間でも複数グランドスラムを獲得し、その地位を不動のものにした。
1934年-1936年の3年間にわたってアマ最強選手として君臨することになったのだ。
【プロvsアマ】
ペリーがアマ最強選手に躍り出た時、プロテニス界でも変化が起こっていた。
同じときにプロテニス界にデビューしたバインズは、
それまでのトップ勢力を次々と打ち破り一気にプロ最強選手に躍り出ていたのだ。
1934年-1936年の3年間、テニス界には
アマのペリー、プロのバインズという2人のチャンピオンが存在することになった。
そしてその間、この2人が対戦することはなかったのである。
プロとアマのどちらが強いかというのはこの頃から盛んに議論された。
戦後はその力関係もはっきりしてくるのだが、この頃はまだ未知数だったといえる。
戦わぬ2人の存在は、テニスファンをやきもきさせただろう。
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しかし1937年、遂に待望のペリーvsバインズが現実のものになった。
ペリーがプロ契約にサインをしたのである。
【ドイツのライバル】
さて、少々話がずれるが、2人がプロとアマで最強を誇っていた当時、
ドイツ出身の2人の選手がそれぞれのライバルとして存在していた。
ゴットフリート・フォン・クラム(Gottfried Von Cramm)とハンス・ニュスライン(Hans Nusslein)である。
フォン・クラムはペリーと同じ年齢の選手で、アマチュアテニス界で活躍をした選手だ。
1934年には全仏決勝でクロフォードを破りグランドスラム初優勝を遂げた。
1935年-1936年の2年間では、4つのグランドスラム決勝をペリーと戦った。結果はペリーの3勝1敗だった。
一時フォン・クラムにもプロ入りの話が持ち上がるが、その時は合意に至らなかった。
そしてその後、不幸にもフォン・クラムはナチスに投獄されてしまい、プロとしての道は絶たれてしまった。
ニュスラインはバインズより1歳上、ペリーよりは1歳下の選手。
アマチュアとしての実績はなかったが、1931年にプロ興行に参加し頭角を現した。
初めのころはチルデンやコジェルフに遅れを取っていたが、1933年にはトップの座に躍り出ることになった。
この頃にはチルデンもコジェルフも40近くになっており、
それに代わる若い勢力としてバインズと共にプロ興行を盛り上げる存在だった。
※両者は1934年にエキシビジョン企画により一度だけ対戦している。
プロとアマが対戦するのは極めて稀な例であったといえる。
オッズは「2-1」でニュスライン有利だったが、
この時はストレートでフォン・クラムが勝利した。
《因みにこれらの選手の年齢差は以下の通り》
生年
1908 クロフォード
1909 ペリー、 フォン・クラム
1910 ニュスライン
1911 バインズ
【ペリーとバインズのプレースタイル】
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ペリーはイギリスの芝生で育った選手だけあり、ネットプレーとタッチショットに秀でた選手だった。
フットワークも大きな武器で、ネットダッシュのスピードは目を見張るものがあったという。
当時は、マッケンローやエドバーグのような完全なネットプレーヤーというのは存在しなかった。
トップ選手は優れたストロークを持っており、ペリーの場合はその強烈なフォアハンドが武器だった。
また、ペリーはフランス四銃士のアンリ・コシェに憧れ、そのショットを手本とした。
コシェは背は低かったが抜群のフットワークとテクニッカルなショットを持っていた選手で1920年代に活躍した。
20年代後半にはチルデンよりも上とされた大選手だ。ペリーはコシェにパワーを加えたようなプレーをした。
そして、ショートバウンドの球をフルショットと同じスイングで返すという誰にも真似のできない技を持っていた。
私が今まで実際に見た中で、ここで言うペリーのようなショット、すなわち、
ショートバウンドをハードヒットと同じ感覚で返すショットを持っている選手は2人しかいない。
ジョン・マッケンローとロジャー・フェデラーだ。
どちらかというと、ネットに固執せず、フォアの強打があり、フットワークに自信があった、
という点で、フェデラーの原型を見ることのできる選手かもしれない。
サーブも速く、スタミナも抜群であった。
これほどの天性を持つ選手がどれほど活躍するのか、ペリーのプロツアーには注目が集まった。
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しかし、それでも多くの関係者はバインズが有利であると分析した。
テニス界の重鎮であるチルデンも「バインズのパワーがペリーを圧倒するだろう」と予想した。
それを裏付けるデータもあった。正確な数字は残されていないのだが、
両者はアマチュア時代に幾度か戦っており、その多くでバインズが勝利していた。
バインズは正にチルデンの流れを汲む選手であり、
長身から繰り出される強烈なサーブとストロークが自慢だった。
特にサーブはチルデンと並び当時最高として知られていた。
ある大会の計測では(数値の真偽はともかく)、
チルデンが128.4mph(206.6km/h)、
バインズはそれを上回る130.2mph(209.5km/h)を記録したという。
スピンのかかったセカンドサーブも自慢のショットだった。
ネットプレーもこなし、当時あまり主流でなかったサーブアンドボレーをプレーに取り入れていたが、
やはりサーブとベースラインからの強烈なショット、特にフォアハンドが最大の武器だった。
【両者激突】
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1937年のプロツアーで、ペリーとバインズは対戦を繰り返した。その数は70戦にも及んだ。
結果は35勝35敗という互角の数字だった。
念願のプロとアマの頂上対決は、全くのタイという結果に終わった。
当時は現在のような明確なランキング制度がなく、優劣を決めるのは難しいのだが、
ペリーのほうが5セットマッチでの勝ちが多かったという点、
また、バインズは一時期風邪のためにツアーを休んでおり、
その不在時にもペリーはチルデンやリチャーズと試合をこなしていたという点で
僅差でこの年のトップはフレッド・ペリーであると考えて良いだろう。
ちなみに両者ともこの年はエキシビジョンの興行をメインにしていたので、トーナメントには出場しなかった。
しかし、それでも両者がトップであるという評価は確実であった。
翌1938年にも両者は多くの対戦を繰り返し、今度はバインズが48勝35敗という数字でペリーを上回った。
(この数字には異論もある。バインズの42勝や49勝という説、ペリーの32勝という説などがある)
この年も両者が1、2位であることに異論はなかった。
勝敗成績によりバインズがこの年の最優秀選手であるとの評価があるのも事実だが、
怪我がちでペリーとのエキシビジョンのみをこなし、その他の大会に出場しなかったバインズよりも、
USプロでトーナメント初出場初優勝を飾っているペリーのほうを上位とするほうが自然ではないだろうか。
両者はほぼ互角の勝負を披露したが、あえて言うなら、
アマチュア時代も含め、直接対決ではバインズがリード、
総合的なランキングではペリーがリードということになるだろう。
そこまで極端ではないが、ベッカーvsエドバーグの様相を呈しているといえる。
ただし、この翌年の1939年にはバインズは大きな活躍を見せ、総合的にもペリーを上回る成績を収めた。
しかし、王者というわけには行かなかった。
若きドン・バッジがプロツアーに参戦してきていたからだ。
【ドン・バッジ】
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ドン・バッジ(Don Budge)
本名:ジョン・ドナルド・バッジ(John Donald Budge)
1915年生まれ、ペリーより6歳、バインズより4歳若いアメリカの選手。
バッジは1938年に史上初の年間グランドスラムを達成した。
チルデンと並び、戦前最強とも評価されるテニス史に名を残す大選手である。
1年で4大大会を全て制することを「年間グランドスラム」と名付けたのはバッジ本人だ。
しかしこの年間グランドスラム、疑いようもなく素晴らしい成績なのだが、
フレッド・ペリーがアマチュアテニスから離れた直後に達成されたものであるため、
ペリーがいたらどうだったかわからない、などと言われるのもまた事実だ。
ただバッジの戦績を調べてみれば、他の選手の不在などといった幸運は関係なく、
実力でこの大記録を達成したと考えておかしくない選手であったことがわかる。
【アマ時代】
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バッジが初めてグランドスラムで優勝を果たしたのは1937年だった。
ペリーもバインズもプロ入りを果たした後である。
それまでのバッジは、まだアマチュアテニス界に君臨していたペリーに、
グランドスラムでもデビスカップでも何度も打ち負かされていた。
アマチュア時代のペリーは確実にバッジよりも強かったといえる。
そしてもう一人バッジを阻む選手がいた。ペリーのライバルであったフォン・クラムである。
フォン・クラムもグランドスラムで何度もバッジの上位進出を妨げた。
しかし1937年になると、バッジは全英、全米両方の決勝でフォン・クラムを下すことに成功した。
そしてそのまま、翌年の年間グランドスラムへとなだれ込むのである。
たしかに時間軸的には、ペリーが居なくなってからバッジが台頭してきている。
しかし、フォン・クラムという苦手だった選手を克服して優勝しているという点や、
1937年の1月から奇跡の92連勝という快挙を成し遂げている点などを踏まえると、
純粋にこの時、バッジの才能が一気に開花したと考えてもおかしくはない。
アマテニス界の頂点を極めたバッジは、翌1939年にプロ契約を交わした。
そしてその本物の実力はプロ大会で明確に証明されることとなった。
【プロ時代】
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プロ入りしてすぐ、バッジは最強であることを証明した。
直接対決でバインズ、ペリー、チルデン、ニュスラインといったトップ選手達を上回り、
ツアー成績は最高、プロ大会でもフレンチ・プロで優勝を飾った。
最初のツアーで負けたバインズは「自分は負けたが、ペリーならばバッジに勝つ」と予想した。
しかし、バインズの予想は外れ、バッジはペリーをも下すことになった。
そしてバッジ時代は、その後何年にも渡り続いていった。
ペリー、バインズの二強時代はバッジの参戦によって2年で終了することとなった。
やがてバッジの最強時代は終わりを迎えるが、誰かに王座を奪われて終わったわけではなかった。
第二次大戦によるテニス興行そのものの中断によって終了させられたのだ。バッジ本人も徴兵された。
(もっとも、1941年のみは怪我であまり試合に出なかったため、一般にペリーがNo.1評価とされる)
戦後、バッジはプロテニス界に復帰したが、そこにはより若いボビー・リグスという選手がいた。
さすがに以前のような単独の王座に君臨することはなかったが、
それでもリグスとの二強時代を築いたのである。
因みにバッジとリグスの対戦成績は、戦前はまだ大きく差がありバッジの52勝18敗だった。
しかし戦後は接近しリグスが42勝38敗と僅かに上回った。トータルではバッジの90勝60敗となる。
その他バッジの残した記録は【歴史的選手の年間成績】を参照
【プレースタイル】
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テニス史上最高クラスと評価されるグランドストロークの持ち主。
パワーとコントロールがずば抜けており、
特にそのバックハンドはそれまでには存在しない最高のショットと言われた。
キャリア初期にはグラスコートを苦手としていたが、
チルデンやペリーのショットを研究することで見事に克服した。
ペリーばりのライジングショットを打つこともできたという。
守備的なロブやドロップショットをめったに打たないというのも特徴だった。
チルデンはバッジを「フットワークに優れ、我慢強いプレーに長けた選手」と評価した。
サーブはバインズほどのパワーはなかったが安定したスピンサーブが特徴だった。
ボレーそのものは水準レベルだったが、
アプローチショットの正確さがずば抜けていたのでネットでのポイントは多かった。
ネットではボレーよりもスマッシュを得意とした。
※【コラム】の
【テニス史を巡る】、
【テニス史を巡る〜補遺〜】、
【歴史的選手の年間成績】
も要チェック!
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