【テニス史を巡る】


【戦前の歴史】

グランドスラムの歴史は古い。

最初のウィンブルドン1877年に開催された。
最も新しい全豪でも1905年に始まった。
しかしこの頃のグランドスラムがどの程度の規模で、
どの程度の価値があったのかは想像がつかない。

最初の頃は各大会で連覇している選手も多かったが、
ローカルな大会での記録に過ぎなかったと考えていいのではないだろうか。
その後、世界的な選手が登場するのは1920年代になってからのことだ。

ウィリアム・チルデンこそがその最初の選手だといわれる。



【テニスの祖チルデン】


ウィリアム・チルデン(William Tilden)
1893年生まれ。

愛称:ビル・チルデン。長身だったことから「ビッグ・ビル」と呼ばれた。
全米6連覇を含むグランドスラム10大会優勝を達成した。

チルデンで特筆すべきことは、
アメリカ人として初めてウィンブルドンに優勝し、全仏でも決勝に進出したことだろう。
国際舞台で多彩な活躍をすることのできた最初の世界的な選手であった。
そしてチルデンを皮切りに、1920年代には次々と世界的な選手が登場してくることになる。

また、チルデン1930年プロに転向し、その発展に大きく貢献した。
正にチルデンこそがあらゆるテニスプレイヤーの祖ともいえる存在であった。

しかし、このチルデンのプロ化は、その後のグランドスラムに大きな問題を投げかけることになる。
グランドスラムは1968年になるまでプロ選手の出場を認めなかった。
アマチュア専用の大会であり続けたのだ。
そのため、その後30年以上にも渡り、有力選手が次々とプロ化するのに伴い
グランドスラム自体のプレーレベルの低下が囁かれることになっていくのである。

チルデンについて、より詳細は【ビル・チルデン最強説】を参照のこと。



【チルデン以後】

その後、1920年代にはフランスの「四銃士」

     
ジャン・ボロトラ(Jean Borotra)、ルネ・ラコステ(Rene Lacoste)、
アンリ・コシェ(Henri Cochet)、ジャック・ブリュノン(Jacques Brugnon)

などが登場して、グランドスラムの複数制覇が行われるようになり、
世界大会としてグランドスラムが賑わいを見せるようになった。
ブリュノンのみ優勝経験なしだが、ダブルスやデビスカップで活躍した)

※四銃士については【ビル・チルデン最強説】の中でも触れているので参照のこと。


1930年代に入ると、


1933年に全米以外の3大会制覇を達成した
オーストラリアのジャック・クロフォード(Jack Crawford)


初の生涯グランドスラム達成者、フレッド・ペリー(Fred Perry)が登場した。
生涯グランドスラムとは、テニスキャリアの中でグランドスラム4大会全てに優勝することである。
ペリー8つのグランドスラムを獲得し、その後プロに転向したイギリス史上最高の選手である。
競技は盛んでも地元選手が活躍しないという意味の
ウィンブルドン現象という言葉から歴史上唯一人逸脱せしめている人物ともなっている。


1938年にはドン・バッジ(Donald Budge)が史上初の年間グランドスラム達成者となった。
年間グランドスラムはバッジレーバー2人だけの記録である。
1939年にプロに転向したバッジは、プロテニス界でも大活躍することになる。

ペリー、バッジについては【ペリーvsバインズ】も参照のこと。


※プロ化した選手は、
 グランドスラムに出場できないので、プロ専用の大会で試合を行った。
 プロ専用の大会は、ほとんどが主要選手の対戦形式によるエキシビジョンマッチであったが、
 中にはトーナメント形式の大会もあった。
 中でもウェンブリー、USプロ、フレンチプロという3つの大会が大規模であり、
 アマチュアでのグランドスラムに相当するものだった。




【戦後のテニス界】

第二次大戦に伴い、テニス界は一時低迷するが、
戦後、その復興に大きく貢献したのがオーストラリアの選手たちだった。

     
フランク・セッジマン(Frank Sedgman)、ルー・ホード(Lewis Hoad)
アシュリー・クーパー(Ashley Cooper)、ケン・ローズウォール(Ken Rosewall)
など。
彼らは何度かグランドスラムで優勝したあと、いずれもプロ選手となっていった。

セッジマンについては【パンチョ・ゴンザレス最強説】の中で、
 またホード、クーパーについては【対決!レーバーvsローズウォール】で触れているので参照のこと。



オーストラリア以外では、1955年に全豪を除く3大会で優勝した
アメリカのトニー・トレイバート(Tony Trabert)という選手がいたが、
この選手も翌1956年にはプロに転向した。

こう考えると、当時のグランドスラムというのは、現在のJリーグや日本プロ野球界のように
より上を目指すためのステップアップのような捉え方をされていたのかもしれない。

そしてそれを象徴するかの如き選手もいた。


アメリカのパンチョ・ゴンザレス(Pancho Gonzales)という選手だ。
彼は1948年と1949年に全米で優勝した後にプロに転向した。
これだけではただの優勝経験者に過ぎないだろう。
しかし、プロ化後の成績を見てみると、
ウェンブリー:
 1950年-1952年まで3連覇。1956年にも優勝。計4回。
 1953年準優勝。
USプロ:
 1953年-1959年まで7連覇。1961にも優勝。計8回。
 1951年、1952年、1964年準優勝。
フレンチプロ:
 1953年、1956年、1961年に準優勝。
と見事な成績であることがわかる。
フレンチプロの優勝こそ無いが、ゴンザレスが最も強かった1950年代には
この大会は4度しか開催されなかった(1953、56、58、59年)。
そのうち2度で決勝に進出しているから、充分な成績である。
グランドスラム優勝を見ているだけではわからない、隠れた名選手だといえる。



【プロの洗礼】


ゴンザレスの強さを示す以下のようなデータがある。

1955年にはトニー・トレイバートがグランドスラム年間3タイトルを獲得し、プロに転向した。
そしてその翌年、1956年には今度はルー・ホードが年間3タイトルを獲得してプロとなり、
更に1958年には今度はアシュリー・クーパーが3タイトルを獲得し、プロ選手となった。

1950年代は実に3人もの年間3タイトル獲得者を輩出したことになる。

プロテニス界は、このようなアマNo.1チャンピオンを次々と迎え入れたわけだが、
そこに待ち受けていたのが50年代最強選手パンチョ・ゴンザレスだった。

結果トレイバートはプロ大会通算で2度しか優勝できず、
ホードは、決勝には7度進出するも、優勝は0回
クーパーに至っては決勝にさえ一度も進出できなかった。

前述の、グランドスラムで活躍してプロになった選手たちの中では
フランク・セッジマンが優勝3回と比較的健闘を見せているのもの、
この当時、グランドスラムでの活躍よりも
プロ大会での活躍のほうが難しかったことがよくわかると思う。

アメリカではいまだにレーバーボルグよりも
ゴンザレスこそが史上最強とする意見もあるほどだ。

パンチョ・ゴンザレスについて、詳細は【パンチョ・ゴンザレス最強説】を参照のこと。



【ローズウォールの頑張り】


グランドスラムで活躍し、
その後プロ入りしてからも活躍できた最初の選手はローズウォールだろう。

1955年にトレイバートが唯一取れなかった全豪、
そして1956年にホードが唯一取れなかった全米、
その両方で優勝したのがローズウォールだった。

ローズウォールホードは同じ1934年生まれであり、ダブルスパートナーでもあった。
(このコンビはダブルスでグランドスラムを達成している)
また、2人は1955-56年にグランドスラム決勝4度対戦して2勝2敗
プロ入りしたときのグランドスラム獲得数も共に4回と、
正にライバルといえる関係だった。

しかし、プロ入り後の2人には決定的な差がついた。
プロ大会で一度も優勝できなかったホードに対してローズウォールは最多の18回を記録した。
2人が決勝で対戦したのは5度で、いずれもローズウォールが勝利した。

こう考えると、プロ入りしたホードを阻んでいたのは
ゴンザレスよりもむしろローズウォールだったのかもしれない。
(両者の対戦成績はローズウォール45勝25敗

ただ、流石のローズウォールも、
プロ入り直後にはゴンザレスの壁にぶち当たっていたようだ。
(両者の対戦成績はゴンザレスの101勝59敗であったという)

しかしその後ゴンザレスが力を失い始めると、
ローズウォールが代わってトップに君臨することとなった。

※ローズウォールについては【ロッド・レーバー最強説】【レーバーvsローズウォール】
 でより詳細に取り上げているので参照のこと。



【レーバーの登場】


1960年代に入ると、テニス界にはロッド・レーバーという
チルデン以来最高のプレイヤーが登場する。
(その輝かしい戦績については【ロッド・レーバー最強説】【レーバーvsローズウォール】に詳細を譲る)

レーバーも含め、1960年代のテニス界を引っ張っていたのは
やはり、依然としてオーストラリアの選手たちだった。

       
ニール・フレーザー(Neale Fraser)、フレッド・ストール(Fred Stolle)、
ロイ・エマーソン(Roy Emerson)、トニー・ローチ(Tony Roche)、
ジョン・ニューカム(John Newcombe)
などという選手が活躍した。

レーバー1963年プロに転向したため、グランドスラムには出場しなくなったが、
他の選手たちはプロにならなかった。
1960年代のグランドスラムはこれらオーストラリアの選手たちで埋め尽くされることになった。


中でもエマーソングランドスラム優勝12回という前人未到の記録を樹立した。
もっとも、この素晴らしいはずの記録は、2000年にサンプラスによって破られるまで
あまり有名なものであったとは言えなかった。
長く大リーグの本塁打記録を持っていたロジャー・マリスの例に似ている。
破られることによってようやく知られることになった記録だった。
しかし、無理もないのかもしれない。
優勝12回のうち10回1963年-1967年の間、すなわちレーバー不在時に行われたものであったからだ。

1962年レーバー年間グランドスラムを達成したときにも
エマーソンはそのうち3つで決勝進出しており、いずれもレーバーに敗退していた。

プロ選手不在によるレベルの低下という、
当時のグランドスラムが抱えていた大きな問題の、
最も顕著な例となってしまっていたのである。
ただ、それでもグランドスラムに12回も優勝するのは並大抵のことではない。
エマーソンが決して弱い選手ではなかったことは理解するべきであろう。

事実、アーサー・アッシュ、フレッド・ストール、トニー・ローチなど多くの一流選手が
エマーソンに阻まれて幾度もグランドスラム優勝を逃しているのだから。

エマーソンについては【対決!レーバーvsローズウォール】で触れているので参照のこと。

その後、1968年にグランドスラムがオープン化されると、プロアマ全選手の出場が可能になった。
(厳密には全仏から。1968年でも全豪のみはオープン化前の大会ということになる)
そして1973年にはATPランキング制度が開始され、
近代テニスへの道が開かれていくことになるのである。

因みにオープン化後のプロ大会だが、フレンチプロは1968年で終了したものの、
 ウェンブリーは1972年まで、USプロは何と1999年まで続けられた。
 しかしいずれもオープン化前とは違い、通常のATP大会又はエキシビジョン大会としての開催であった。


【コラム】
【テニス史を巡る〜補遺〜】【歴史的選手の年間成績】 も要チェック!

戻る


このページに対するご意見等は まで。