【対決!レーバーvsローズウォール】

 

この【コラム】【ロッド・レーバー最強説】の詳細記事となっているので
まずは【ロッド・レーバー最強説】そして【テニス史を巡る】を参照いただきたい。



【1960年代最高の顔合わせ】

両者の対戦成績には諸説ある。公式な記録が存在しなかった時代の選手なので止むを得ない。

数字は様々残されているが、ある記者がもっとも詳細に調べたところでは、
両者は実に145回に及ぶ対戦を行ったという。

内訳はレーバー79勝66敗であった。
ほぼ互角の数字であるが、
最初の48戦ではローズウォール35勝13敗という記録がある。
計算すると、その後はレーバー66勝31敗になるから、
前半はローズウォールが、後半はレーバーが多く勝っていたということになるだろう。

両者が辿ったキャリアは大まかに見れば同じである。
アマチュアテニス → プロテニス → オープン化後という道のりである。
いずれの時代でも両者はトップ選手として活躍した。

ただし、アマチュア時代に両者は対戦しなかった。

2人には4歳の年齢差があるが、年上のローズウォールが若くしてプロに転向したため、
レーバーがアマテニス界に登場したとき、既にローズウォールはいなかったのだ。

当サイトの歴史コラムでは何度も繰り返しになるが、
プロアマは全く別の興行であり、お互いに対戦が行われることはなかった。

2人が最初に顔を合わせたのはレ−バーがプロ入りした1963年のことであった。



【アマ時代】

簡単に両者のアマチュア時代を見てみたい。


まず、ケン・ローズウォール(Ken Rosewall)
本名:ケネス・ロバート・ローズウォール(Kenneth Robert Rosewall)
1934年生まれ。
1953年、わずか18歳にしてグランドスラム初優勝を果たし、続いて全仏でも優勝を飾った。
衝撃的な活躍をした年だったが「London Daily Telegraph」によるアマチュアランキングでは、この年の1位はトレイバートだった。
1954年、ウィンブルドンで決勝に進出するもドロブニーに敗退した。この年1位はドロブニーだった。
1955年、全豪で優勝を達成。残りの3つは全てトレイバートが獲得した。この年1位はもちろんトレイバート
1956年、全米で優勝を達成。残りの3つは全てホードが獲得した。1位はホード
そして1957年ローズウォールはプロ入りを果たした。

若くして颯爽とデビューを果たし、毎年トップクラスの活躍をしたことがわかるが、
意外にもアマチュア時代にランキング1位になることはなかった。


続いてロッド・レーバー(Rod Laver)
本名:ロドニー・ジョージ・レーバー(Rodney George Laver )
1938年生まれ。
1959年にウィンブルドンで決勝に進出したのが表舞台での最初の活躍であった。
1960年には全豪で優勝を果たしたが、ウィンブルドン、全米ではフレーザーに決勝で敗れた。
1961年にはウィンブルドンで優勝。全豪と全米では決勝でエマーソンに敗れたが、ランキング1位を獲得した。
そして1962年ドン・バッジ以来の年間グランドスラムを達成した。もちろんランキングは1位だった。

戦後のテニス界では、1955年トレイバート、1956年ホード、1958年クーパーと、
グランドスラム4大会のうち、3大会まで優勝した選手はいたのだが全てを獲得した選手というのはレーバーだけであった。



【プロテニス界】


1950年代半ばにローズウォールがプロ入りしたとき、そこにはパンチョ・ゴンザレスという巨大な壁が存在した。

ゴンザレスは、アマチュアテニス界から勲章を引っさげて参戦してきた選手たちを
これでもかと叩き続け、その全てを退けていった。
ローズウォールも例外ではなく、プロ入り当初はゴンザレスに跳ね返された。

しかし、ほとんどの選手がゴンザレスの後ろでその他大勢の1人になってしまった中で、
ローズウォールだけは次第にゴンザレスに対抗しうる選手となっていった。

1960年代に入ると遂にローズウォールゴンザレスを超えてプロ最強選手の座を手にした。
この辺りの詳細は【パンチョ・ゴンザレス最強説】を参照していただければと思う。

アマチュア、グランドスラム界でレーバーが颯爽と登場していた時期に
プロの世界ではローズウォールが最強の選手に上り詰めていたのだった。
アマチュア時代にはNo.1になることはなかったローズウォールだが、
より難易度の高いプロの世界で最高の選手になったのである。



【1963年】


そして1963年ロッド・レーバーがプロテニス界に登場した。

1950年代は、全てのアマチュアチャンピオンがプロの壁に跳ね返された時代だった。
しかしレーバーは、それまでの選手にない年間グランドスラムという実績を引っさげての登場だった。
しかも、前年を最後にアマチュアテニス最大の天敵であったパンチョ・ゴンザレスは半引退状態に入っていた。

レーバーへの期待は高く、その最初のツアー相手として
ケン・ローズウォールルー・ホードというプロテニス界のトップ2が選ばれた。
いきなり最高の対戦が用意されたのだ。


まず、レーバーはプロNo.2のルー・ホードと8連戦を行った。試合は全て5セットマッチで行われた。
レーバーは最初のセットを取ったが、続く3セットを連取され、初戦はホードの勝利となった。
そして続く7戦ではホードが全てストレート勝ちを収めた。
試合にして0勝8敗、セット数にして1-24レーバーホードに大差の完敗を喫したのだった。


またレーバーは、プロNo.1ローズウォールとの13回の対戦でも
これまた2勝11敗と散々に打ち負かされてしまった。

年間グランドスラムという最高の実績をもってしても
アマチュアテニスがプロテニスを凌駕することはできなかったのである。

レーバーはプロのプレーレベルの高さを認めた。

特に、1度も勝てなかったホードよりもローズウォールの印象が強かったようで、
「ホードは実に素晴らしい選手だが、ローズウォールはその倍素晴らしい」とコメントした。

最初のツアー後も両者は対戦を繰り返し、この年だけで45回以上対戦したという。
そしてその多くでローズウォールが勝利した。
45回の内訳はローズウォールの33勝12敗だったという。

この年、ローズウォールはプロの3大トーナメント全てで優勝を果たした。
これはプロ版の年間グランドスラムとでも言うべき大記録であり、
パンチョ・ゴンザレスでさえも成し得なかった史上初の快挙であった。



【1964年以降】

 
通例に漏れずプロの洗礼を浴びることになってしまったレーバーだが、
そのまま普通の選手になってしまった他のアマチャンピオンとは一味違っていた。
早くも2年目にはローズウォールとの2強時代を作ることに成功したのだ。

年間グランドスラムという他に類を見ない実績は、
レーバーが他の選手とは確実に違うことを意味するものだった。

1964年にはレーバーが11大会、ローズウォールが10大会で優勝を果たした。
プロ3大トーナメントは、レーバーが2つを、ローズウォールが残りの1つを獲得した。
対戦成績はレーバー15勝4敗と大きく勝ち越した。
この活躍により、レーバーの1位が有力ともいえるが、
この年プロ大会は全てトーナメント方式であり、エキシビジョンは行われなかった。
つまり現在のようなトーナメントポイントの算出が可能で、
それによると僅差でローズウォール(78pt)レーバー(70pt)を上回る形となっている。
また当のレーバー本人も、重要な場面でのローズウォールの優れた成績を評し
自分はまだ1位になれていないというコメントを残した。
これにより、この年はローズウォールが僅差で1位評価となっている。
前年でローズウォールに大敗を喫したレーバーだがこの年以降は対戦成績を逆転させることになる。

1965年には今度はローズウォールが3大プロのうち2つを獲得し、レーバーが1つを獲得した。
しかし年間No.1の活躍を見せたのは今度はレーバーのほうで、前年を大きく超える17もの大会で優勝を飾った。
他にも決勝では8大会でパンチョ・ゴンザレスと対戦し6勝2敗という成績だった。
レーバーゴンザレスの生涯対戦成績は、レーバー37勝21敗とされている)

1966年にはまたレーバーが3大プロのうち2つ、ローズウォールが1つを獲得した。
この年のレーバーは16大会で優勝。もはやローズウォール以外に止められる選手はいないというほどの強さだった。

そして1967年レーバープロ3大トーナメント全制覇を成し遂げた。
1963年のローズウォール以来の快挙であり、史上2人だけが達成した記録となった。
年間でもレーバーは19大会優勝というプロ史上最高の記録を作り上げた。

1960年代後半のプロテニス界は完全にこの2人の時代であった。
レーバーがプロ入りした1963年からオープン化前の1967年までプロ3大トーナメントは全てこの2人が優勝した。
(レーバー8回、ローズウォール7回)
決勝では10回もの顔合わせをし、ローズウォール6勝4敗という熱戦を繰り広げた。

コート別に対戦を見た場合、プレースタイルから考えるに
クレーではローズウォールが、グラスではレーバーが有利かと思えそうだが意外やそうでもなく、
両者はどのコートでも勝ち負けを繰り返していたようだ。



【オープン化】

1968年にオープン化を迎えたとき、ローズウォールは34歳、レーバーは30歳であった。
テニス界ではベテランといえる年齢である。
特にローズウォールのほうは、一般にはキャリアの絶頂を過ぎた年であるといえた。

しかし、この時2人は紛れもなく最高の選手であった。
それを裏付けるように全仏ではローズウォールが、ウィンブルドンではレーバーが優勝した。

そして翌1969年を迎える。
この年こそは、テニス史上最も著名な年の一つといえるだろう。
ロッド・レーバー2度目の年間グランドスラムを達成したのである。


レーバーは、
1962年:アマでの年間グランドスラム達成
1967年:プロトーナメントの完全制覇
1969年:オープン化後の年間グランドスラム
と、全てのキャリアで完璧な結果を残した稀有の選手となった。

さすがにオープン化後はレーバーの勢いが強く、両者の対戦はレーバー23勝9敗であった。

ただし、トーナメント全体でいえばレーバーの絶頂は1969年までであり1970年以降の成績はいまいちだったといえる。
強い選手であったことは事実だが、グランドスラムへの興味を失ってしまったのか出場自体少なく、
出場しても早期敗退することがほとんどだった。最高でも準々決勝までしかない。


それに比べると超ベテランローズウォールの衰え知らずの活躍は際立っており次々と最年長記録を打ち立てていった。
1970年代に入っても更に3つのグランドスラムを獲得したのは驚きである。

1972年37歳での全豪優勝は史上最年長でのグランドスラム優勝であり、
1974年39歳での全米準優勝も決勝進出最年長記録となっている。
また、43歳の時にはトーナメント優勝を達成しており、これはパンチョ・ゴンザレス44歳に次ぎ2位となっている。

チルデン、ゴンザレス、コナーズなど、40代でも活躍を続けた選手はいるが、
10代でグランドスラムを取り、かつ40を過ぎてもトーナメントに優勝したという選手は
ローズウォール唯一人であろう。

レーバーは1976年まで、ローズウォールは1980年まで現役を続けた。



【プレースタイル】


ローズウォールは、自らのスタイルをオーソドックスと呼び、レーバーアンオーソドックスと呼んだ。
それを最も良く表しているのが両者のバックハンドになるだろう。

ローズウォールは当時最も美しいとされるスライスバックハンドを打った。
当時のバックハンドはスライスがメインであり、その完成形ともいえるショットを持っていたのがローズウォールだった。

一方レーバーは、ラケットを振り上げるトップスピンを打った。
それまでもトップスピンバックハンドは存在したが、現在も通用するような腕全体を使ったショットはレーバーが初めてだった。

それまでのショットを完成させたのがローズウォールであり、それまでにないショットを使ったのがレーバーだった。

因みにローズウォールのスライスバックハンドは、現在プロで一般的に使われている守備的なスライスとは趣の異なるものである。
もちろん守備的なスライスも使ったが、攻撃的なショットの時には腕を前に押し出しフラットに近い当たりを獲得していた。
後にフラットやトップスピンに進化する過程の球であることが分かるショットである。


両者共にそれほど上背のある選手ではなかったのでサーブが絶対の武器ではなかった。
それでもレーバーのほうはロケットサーブなどといわれ、かなりの威力を持っていたようだ。
ローズウォールのサーブはあまり威力がなく弱点とも言われた。

レーバーフォアハンドはバックハンド同様腕全体を使った強烈なショットだった。
スピン系とフラット系を打ち分け、後の時代の選手たちが使うような見事なランニングショットも披露した。
ローズウォールフォアハンドはしばしば弱点として挙げられた部分だが、恐らくはバックに比べてということであろう。
晩年のいくつかの試合を見る限り弱いという感じはしない。
むしろコンパクトな振りぬきでコーナーを狙うことのできる優れたショットのように思えた。
球筋はトップスピン系で、レーバーよりも回転量は多かった。

ボレーは、お互いダブルスで活躍したこともあり、非常に得意としていた。
レーバーはプレーの基本がサーブ&ボレーだったし、
ローズウォールもサーブが強くない分流れの中でネットを取ることが上手くハーフボレーを得意とした。
また合わせるのが上手かったのでスマッシュは得意だった。

両者ともに優れた身体能力を持っていたのでフットワークも素晴らしかった。
どちらかといえばレーバーは天性のものを持ち、ローズウォールはトレーニングによって獲得したものだといえる。

2人はロブドロップショットなどの小技も上手くコートを縦横無尽に走り回ったので
見ていて全く飽きさせないプレーをしたという。



【ライバルたち】


【幻の最強選手:ルー・ホード】


ルー・ホード(Lew Hoad)
本名:ルイス・アラン・ホード(Lewis Alan Hoad )
1934年生まれ。オーストラリアの選手。

いまだに史上最強の選手は誰かを議論する際にしばしば名前の登場する選手である。

ローズウォールと同年で、友人でありライバルでもあった。
2人はダブルスを組んでグランドスラムを達成し、シングルスでも何度も頂上決戦を繰り広げた。

1956年ホードのベストイヤーで、グランドスラム3大会優勝を果たしアマランク1位に輝いた。
全米のみ準優勝だったが、その時の相手はローズウォールだった。そして、2人はほぼ同時期にプロに入った。

とにかくどのショットにもパワーがあり、才能、能力ともに抜群と絶賛された。

グランドスラム3大会優勝を果たした選手は他にもいたが、中でもホードが最も強いといわれた。
アマチュア時代は当然ローズウォールよりも評価が高く
プロに入っても、ホードなら当時最強だったパンチョ・ゴンザレスに勝てるのではと考えられた。

しかし実際にはゴンザレスの壁を破ることはできず、その後ローズウォールにも遅れを取り
結局最後までプロ最強の選手になることはできなかった。

プロ大会では7度の決勝進出があるが、2度ゴンザレスに、5度ローズウォールに敗れ
1度も優勝することができなかったのがそれをよく表している。

能力は抜群でも、ゴンザレスローズウォールのような相手を研究してくる選手には分が悪かったといえる。
両者との対戦成績も、始めはリードしていたものの最終的には逆転されてしまった。
ローズウォールとは25勝45敗であり、最後の20回では5回しか勝てなかったという。

 
そんなホードだが、上でも記述している通りレーバーとの最初のツアーでは8戦全勝だった。

レーバーのその運動能力は誰からも絶賛されたが、
ゴンザレス「考える部分は弱い」と評価したように決して策をめぐらすタイプではなかった。
ホードとの対戦では力と力の勝負になったと想像できる。
まだレーバーが全盛期でなかったということもあるが、
真っ向勝負となれば、能力に勝るホードが有利に試合を運んだのだろう。

その後ホードは怪我のため半引退状態に入ってしまう。
そのため大きな大会での両者の対戦はないのだが、
ホードもいくつかの大会にスポットとして参戦しておりそこで両者が戦うこともあった。
さすがに全盛期を迎えているレーバーに、半引退のホードが太刀打ちする術はなく、
総合ではレーバー37勝18敗という対戦成績となっている。

ホードのプレースタイルは当時としては異例の豪快なものだった。
ラリーを続けることはあまりせず、どの場面であっても一撃で決めることにこだわったという。
その強打はサーブ、ストローク共に凄まじく、ベースラインの遥か後方から
トップスピンの強打でポイントを取れる選手は当時ホード以外にはほとんどいなかった。
ネットプレーも素晴らしかったがハーフボレーやローボレーでさえ決定打にしようとした。
こういったスタイルからミスも多かったが、そのこだわりのプレーは多くの観客を魅了した。


これほど強力といわれ実績充分でありながらも、
最強の座を確実にものにすることができなかったという点で、
ボリス・ベッカーを思わせる選手である。

またジャック・クレイマーは、
素晴らしく高い能力を持ちながらもテニスに対する集中が持続しない点を挙げて、
戦前のバインズとの類似を指摘している。

オープン化後に一時的に現役復帰を果たしているが活躍はほとんどしなかった。
1968年全仏では第7シードでエントリーしたものの試合には出場しなかった。



【最強のアマチュア:ロイ・エマーソン】


ロイ・スタンレー・エマーソン(Roy Stanley Emerson)
1936年生まれ。オーストラリアの選手。

ローズウォールより2歳下、レーバーより2歳上というちょうど中間に位置する選手。
同じ年にアシュリー・クーパーアレックス・オルメドなどがいる。

エマーソンは、多くの名手がプロ化していく中で、アマチュアを貫き通した選手だった。
しかし、完全にアマチュアよりプロのほうがレベルが上とされていた時代だったため
グランドスラムで夥しい記録を作ったにも関わらず、
最強論には滅多に名前の上がってこない選手となってしまっている。

エマーソンはグランドスラムでシングルス12(歴代4位)ダブルス16(歴代2位タイ)
合計28(歴代1位)という優勝回数の大記録を作った。
史上唯一シングルス、ダブルスの両方で生涯グランドスラムを獲得、
全豪では1963年から5連覇を達成、1964-65年にはアマチュアランキングNo.1となった。
中でも1964年はベストイヤーで、グランドスラムでは全仏以外の3タイトルを獲得、
年間17大会で優勝、109勝6敗(94.78%)、オープン化後の記録を超える55連勝をも達成した。

しかし皮肉にも、これほどの大記録を達成してしまったがために
プロとの対比の格好の引き立て役にもされてしまう選手である。

エマーソンは遅咲きの選手だった。
1950年代後半、ローズウォールホードがプロ入りした後、
同じ年齢のクーパーオルメドが次々に登場してグランドスラムで活躍をしたが
エマーソンはまだ全然出てこなかった。

ようやくエマーソンが登場するのは、クーパーオルメドがプロ入りした後、1961年のことである。
この年、エマーソンは全豪、全米の2つのグランドスラムを獲得した。
しかし、翌1962年にはグランドスラム3大会で決勝に進出するもいずれもレーバーに敗れ
その年間グランドスラムを許す最大の立役者となってしまった。

エマーソンが覇権を手にするのは更にその後、レーバーもプロ入りを果たしてからである。
つまりエマーソンが最強だった頃、アマチュアテニス界には
ローズウォールホードクーパーオルメドもそしてレーバーもいなかったことになる。

更に悪いことに、エマーソンは息の長い選手でもなかった。
オープン化を迎える1968年には既にピークを過ぎており、
アマチュア1位の座を新鋭のニューカムに譲っていた。
オープン化後の活躍がないというのも印象を大きく落としてしまっている原因だろう。

大量のグランドスラムを獲得しながらも、実はピークの短かったエマーソンである。
1964年前後のごく限られた最強時代だったらあるいはプロ選手たちに対抗できただろうか。

プレーは、オーソドックスなサーブ&ボレーを基本とした。
強力なフォアを持ち、ダブルスプレイヤーらしく足元に落とすリターンが得意だった。
セッジマンローズウォールの流れを組みフィットネスを重視したため
筋肉の付き方が素晴らしく、フットワークも抜群だったという。

エマーソンレーバーの対戦は、
レーバーがアマチュアであった1962年までとオープン化後の1968年以降に行われている。
間の5年のブランクが惜しい感じがするが、それでも多くの対戦があり、
レーバー47勝18敗という数字が残っている。



【その他のオーストラリア選手】

《アシュリー・クーパー(Ashley Cooper)》

1936年生まれ。

最初の表舞台への登場は1957年。
この年、クーパーは3つのグランドスラムで決勝に進出。
全豪で優勝、ウィンブルドン、全米では準優勝となり、アマチュアランキングの1位を獲得した。
ただし、ウィンブルドン決勝ではルー・ホードに完敗しており、
そのホードがウィンブルドン終了後、すなわちシーズンの途中でプロに転向した
という条件があっての1位獲得であった。

翌年の1958年も同じ3大会で決勝に進出。
今度はその全てで優勝を果たした。
この年も1位に輝いたが今度は文句なしの実績だった。

1959年にはプロに転向するが
残念ながら大きな活躍を見せることはなかった。

オープン化後最初の全仏では名前だけ登録されたが試合には出場しなかった。
ホードも同じように名前だけの出場だったわけだが、何らかのトラブルがあったのか、
あるいはもともと出る気はなかったものの名誉の付与というか、
歴史に名前だけでも残す措置でも取られたのだろうか。

※その後の調査の結果がブログに掲載されているので参照のこと。
 スマッシュ調査団への投稿(2006/9/8)


《ニール・フレーザー(Neale Fraser)》

1933年生まれ。
ローズウォール、ホードより1歳年上のサウスポーの選手。

この時代のオーストラリア選手たちの中では年長ということになるが、
他の後輩たちが躍進する間大きなタイトルはなく
もっぱらダブルスでの活躍がメインだった。

ローズウォール、ホード、クーパーがプロ入りした後の1959年に
ようやくグランドスラム優勝を果たし、アマチュアランキング1位に輝いた。
翌1960年にも好調を維持し、グランドスラム3大会で決勝に進出、
いずれもレーバーとの対戦となり、2勝1敗という結果を収めて
2年連続でのランキング1位を獲得した。

しかしその後はレーバー、エマーソンの台頭にあってしまい、
大きく活躍することはなかった。プロ入りはしていない。



【忘れえぬ名手:アンドレス・ヒメノ】


アンドレス・ヒメノ(Andres Gimeno)
1937年生まれ。スペインの選手。
レーバーよりも1歳年長にあたる、スペイン史上屈指の影の実力者である。
その実力に比べて評価が著しく低いのが残念だ。

ヒメノは1960年にプロに転向した。
アマチュア時代はグランドスラム、デビスカップにも出場したがそれほど目覚しい活躍をする選手ではなかった。

ヒメノが転向した1960年前後は、ちょうど世代交代が行われた時期であった。
パンチョ・ゴンザレス、パンチョ・セグラ、セッジマン、トレイバート達は力を失っていき
代わりに若手の選手達が台頭していったのである。その中にヒメノも入り込む形となった。

60年代後半にはレーバー、ローズウォールに次ぐプロNo.3の選手として不動の地位を確立した。
ヒメノの位置はちょうどフェデラー&ナダル時代のジョコビッチに相当するものと考えてよさそうだ。
多くの大会でレーバーローズウォールは直接対決を行ったが、第3シードには必ずヒメノが入っており、
両者のどちらかは、準決勝でヒメノと戦わなくてはいけなかった。

ヒメノの活躍についていくつか例を挙げると、
まず1962年、この年はローズウォールが10大会で優勝する活躍を見せた年だが、
その10大会のうち6大会の決勝の相手がヒメノであった(ホードは3大会)。
また、1966年はレーバーが16大会優勝という圧倒的な強さを見せた年だが、
そのうち8大会で決勝の相手がヒメノであった(ローズウォールは6大会)。
この中には準決勝でローズウォールを倒して決勝に進出した例も多い。

詳しい対戦成績というのが残されていないが、ローズウォールには比較的互角に渡り合っており、
レーバーには負けが込んでいたようだ。
(1967年のみの記録ではあるが、レーバーvsヒメノ12勝4敗ローズウォールvsヒメノ7勝7敗という数字が残されている)

ヒメノの不運はなんといっても3大プロトーナメントでの優勝がないことだろう。
苦手のレーバーにもいくつかの勝利を上げているのだが、大きな勝利がないのだ。
そのせいか、プロ時代の活躍がクローズアップされることがなく、その業績を調査しようとしても
レーバーローズウォールの対戦相手としてしか出てこない。
ヒメノの優勝数などはほとんど伝わっていないのが現状だ(何故!!)。


一般にこの時代のスペイン選手というとマヌエル・サンタナがクローズアップされる。
ヒメノより1歳下で、アマチュアで活躍したサンタナは全仏2回、ウィンブルドン1回、全米1回という、
この時期ではエマーソンに次ぐ見事な記録を残している。
もちろんこれだけでもクローズアップされるにふさわしい選手ではあるが、
やはり当時のプロとアマチュアの違いというのは考慮に入れなくてはならない。
ヒメノサンタナについては以前ブログ記事をアップしているのでそちらを参照のこと)

オープン化後にはサンタナエマーソンもほとんど活躍をしなかったが、
レーバー、ローズウォールはもちろんヒメノも全仏で優勝していることを見れば
プロとアマの力の差は改めて大きかったのではないかと感じさせる。

オープン化後の1972年にヒメノは全仏で優勝を飾った。
プロ3大トーナメントを取らなかったヒメノにとっては嬉しい初のメジャータイトルである。
そしてこの時の最年長優勝記録は未だに破られていない。

【コラム】
【ロッド・レーバー最強説】
【テニス史を巡る】
【歴史的選手の年間成績】 も要チェック!

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