【70年代前半史】

 
70年代前半は2つの最強時代の狭間にあたる時期であった。
2つの最強とはすなわち、1969年年間グランドスラムのロッド・レーバー
1974年グランドスラム3大会獲得のジミー・コナーズである。

69年までがレーバー時代、74年からがコナーズ時代といえるのだが、
その間の1970-73年、この狭間にあたる4年間が混沌としていた時期だった。

ここではこの限定された4年間にスポットを当ててみたい。


【グランドスラム表】
全豪全仏全英全米No.1
1970年アッシュコデスニューカムローズウォールニューカム
1971年ローズウォールコデスニューカムスミスニューカム
1972年ローズウォールヒメノスミスナスターゼスミス
1973年ニューカムナスターゼコデスニューカムナスターゼ

表からも分かるとおり、
1973年のニューカム以外に年間グランドスラム複数獲得者がいない。
そして73年のニューカムもその年のランキング1位ではない。
混沌としている状態がよく表されているのがわかると思う。



【グランドスラム獲得数一覧】

4回 ニューカム
3回 ローズウォール、コデス
2回 スミス、ナスターゼ
1回 アッシュ、ヒメノ

こうして一覧にしてみると何人かの選手が安定して勝っていたようにも見えるが、
実は裏に、そうではない状況を示すデータも存在する。
ここに挙がっている優勝者のほぼ全員が、同時に1回戦負けも喫しているのだ。
4度の最多優勝を誇るニューカムでさえ71年全米と73年全仏の2度、初戦で敗退している。

初戦敗退のない選手はローズウォールアッシュのみであるが、
ローズウォールは2回戦負けが2度あり、アッシュは3回戦負けが2度ある。
しかしむしろこの時期にあっては、3回戦まで負けなかったアッシュの成績は称えるべきなのかもしれない。

この間、年末に行われるマスターズファイナルではナスターゼが3回、スミスが1回優勝している。
これを含めればナスターゼの優勝がぐっと多くなるのだが、
この頃のマスターズは上位選手が必ず全員出場したわけではなかったという事実を指摘しておくべきであろう。

74年に大ブレークを果たすコナーズも着実に力を付けていたが
まだ大きな大会で勝つには至っていなかった。

さて、レーバーにも触れねばなるまい。
70年代に入ると急激に最強の座から滑り降りたレーバーだったが
引退まで1度もトップ10から落ちなかった選手である。依然、トップ集団の一人に変わりはなかった。
協会との確執もあり、正式な大会にはあまり出場しなくなったのが力を失った最大の原因であった。
非正規の大会では相変わらず優勝も多かったが、たまに出る公式大会では、
出れば確実に勝ったというわけではなく、やはりかつての力が落ちていたのも事実であった。
70年代に入るとグランドスラムでの活躍は完全になくなっていった。



【ランキング】

この時期のランキングを見てみよう。
当時のランキングはATPランキング制度の発足前なので、テニス専門誌などの独自集計によるものである。
一部異説もあることをご承知願いたい。

《1970年》
前年最強のレーバーは公式大会にはほとんど出ず、ウィンブルドンと全米でも早期敗退を喫した。
代わりに1位の座を掴んだのはジョン・ニューカムだった。
しかしそれは圧倒的なものではなくダンゴ状態の中での繰り上げというイメージだった。
この年のニューカムは準優勝やベスト4が多く、成績は安定していたといえるのだが
優勝はわずか2大会でしかなく、消去法によるNo.1評価に過ぎなかった。
つまり、どの選手もあまり勝たなかったということである。
前年までのレーバーの支配がそれほど大きかったということになるだろうか。

参考までにこの年のレーバーは、非正規の大会が多いが、何と15勝を果たしている。
このため、やはりNo.1はレーバーとすべきなのではないかという説も根強い。

《1971年》
7勝を挙げたニューカムが1位。今度はようやく前年と違って文句なしの評価となった。
2位は4勝をあげたスタン・スミス
他にはナスターゼがマスターズを含めて7勝をあげる健闘を見せたのだが
より大きな大会で活躍したスミスのほうが上位評価となっている。

《1972年》
スミスが9勝をあげて1位。
2位のナスターゼは出場大会も多くスミスを超える12勝をマークした。
勝率ではスミスのほうが上だが、より多く勝ったナスターゼのほうを1位をとする意見もある。
事実上2強の年だったといえる。
本命ニューカムは協会との確執で2連覇中のウィンブルドンを欠場するという不運に見舞われた。
7勝をあげて健闘はしたものの全て小さな大会での優勝だった。
また、ローズウォールも決勝進出と準決勝進出が多く健闘を見せた。
ナスターゼより上の2位にするという意見もあるのだがトータルは5勝でしかなく、
大きな大会での活躍もなかったのでナスターゼばかりかニューカムより上ということもないだろう。

《1973年》
ニューカムが全豪と全米で優勝。この4年間で初めてのグランドスラム複数獲得者となった。
この活躍によりニューカムをNo.1とする意見もあるが、それ以外に1大会でしか優勝しなかったため、
全仏とマスターズで勝ち、全14勝をあげたナスターゼのほうこそがNo.1に相応しいと見ていいだろう。
しかし問題を抱えるウィンブルドンでは相変わらず欠場者続出だった。
そしてこの年にATPのランキング制度が始まり、初代王者にナスターゼが就任することとなった。

実はこの年、コナーズが11勝を上げてランキング3位に上り詰めている。
まだ大きな優勝はなかったが、新しい時代の準備は整っていた。



【この時代の主な選手】

《ジョン・ニューカム》

混沌の70年代前半ではあったが、実質No.1といっていいのはこの選手だろう。
この時期4つのグランドスラムを獲得した。もちろん最多である。
オープン化前のアマチュア時代から既に活躍しており
1967年には最後のアマチュアランキングNo.1選手でもあった。
また1973年のATPランキング制度後にも1位を獲得している。

《ケン・ローズウォール》

ご存知1960年代のプロ最強選手であり、旧時代の生き残りともいえる選手だ。
70年代前半のグランドスラムは3つ。この時代にあっては相当なベテランだったがなお活躍したのだから凄い。
以前のような爆発的な強さはなくなっていたが、成績が毎年安定していたのはさすがだ。
ローズウォールについての詳細は【ロッド・レーバー最強説】【レーバーvsローズウォール】を参照)

《イリー・ナスターゼ》

ATPランキングの初代1位。偉大な選手の割にはグランドスラムは2つと意外にも少ない。
しかしマスターズファイナルでは活躍し、1971〜75年まで5年連続決勝進出、そのうち4度で優勝した。
70年代前半では最も多くの試合で勝った選手である。後のクレー巧者の先駆けともいえる存在だが、
全米で優勝したときはグラスコートであり、72年ウィンブルドンでも準優勝しているなど、
どのコートでも戦える選手だった。
ニューカムと並びこの時期の最強選手の一人といっていいだろう。

《スタン・スミス》

72年の王者。この年は本命ニューカムが大きな大会に出なかったこともあったが
9大会で優勝、勝率も89%と立派な成績を収めた。翌73年にも8勝をあげている。
グランドスラム2勝とマスターズファイナル1勝がある。
オープン化後のタイトル数は36と多く、
ここに挙がっている選手たちの中ではナスターゼの57に次いで2番目である。
73年以降の最高ランクは3位。

《ヤン・コデス》

グランドスラムでの活躍が見事で、3度の優勝、2度の準優勝がある。
クレー専門の選手なので全仏連覇は納得なのだが73年のウィンブルドンでも優勝した。
この年は本命がほとんど出場しなかったということもあるのだが、快挙と言っていいだろう。
ただし、一番強かった時期に、チェコ国内でのみの活動に専念し、
グランドスラム以外の国際試合にはほとんど出場しなかったため、総合の評価は高くなかった。
71年の全米では、その年の全仏覇者であるにも関わらずノーシードでエントリーされ
トップシードのニューカムと初戦で当たるというドローにされてしまった。
しかしコデスは勝ち続け、決勝にまで進出した。
ランキング制度後は多くの国際大会にも出たが、目立った活躍ができなかった。
それもあり、実績のわりには忘れられた選手になってしまっている。
生涯タイトル数は、グランドスラム3つに比べて異例とも言える少なさのわずか8でしかない。
この選手の特殊な活動履歴を物語っているといえる。

《アーサー・アッシュ》

この時期には70年の全豪で優勝しているだけだが
1968年、オープン化後初の全米優勝者であり、その年のランキング2位でもあった。
また、コナーズ時代の1975年にはウィンブルドンで勝っており
ATPランキングにおいても最高2位にまで達した。
大勝しなかったが長い期間にわたって活躍した選手だったといえる。
生涯タイトル数は33。

《アンドレス・ヒメノ》

レーバーと同年代。この時代においては一世代前と言えるベテラン選手。
1960年代にプロ選手としてレーバー、ローズウォールに次ぐNo.3の選手として活躍した。
大きなタイトルは1972年の全仏優勝のみだが、これは全仏史上最年長記録となっている。
クレーを得意とした選手だが、グラスコートの全豪でも決勝進出の経験がある。
同年代のアマチュア選手達が、この時代に全く活躍していなかったことを考えれば、
ローズウォールと共にプロのレベルの高さを見せ付けた選手ということになる。
ヒメノについては【レーバーvsローズウォール】でも取り上げている。
 また、以前書いた【サンタナとヒメノ】というコラムもあるので合わせてそちらも参照のこと)

《トム・オッカー》

大きなタイトルこそなかったが、成績の安定していたオランダ人選手。
ネットプレイヤーだったが、強烈なトップスピンを使ったことで知られた。
グランドスラムの最高は1968年全米で、この時は決勝でアッシュに敗れた。
シングルスでも活躍したが、それ以上にダブルスでの活躍が有名だ。
ダブルスタイトル78は2004年にウッドブリッジに抜かれるまで最高記録だった。


以下番外2名

《コナーズ》

74年の活躍以降、ずっと1位を守り続けることになる選手だが、
既に73年にはランキング3位になっており、
またその前年の72年にもトップ10に入っている選手だった。
【トップ10在位ランキング】では集計が73年以降の数値に限定されているため
アガシと並ぶトップタイの16年という記録になっているが、
72年も含めるとすれば実質単独1位だったことになる。

《レーバー》

70年代に入って急激にランクを落としたのは残念でならないが、改めて見るとやはり抜きん出た選手であった。
この時代、相手がネットに詰めている場合、ほとんどの選手にとって、
ロブか足元に落とすショットのみがその対抗手段であったといえるのだが、
レーバーはフラット系の強打やランニングパスなど別格のショットを持っていた。
スマッシュは最高に上手いわけではなかったが、サーブ&ボレーの腕前も一級だった。
ミスが続き急激に調子を落とす時もあったが、総合力では群を抜く存在であったといえるだろう。
(詳細は【ロッド・レーバー最強説】【レーバーvsローズウォール】を参照)

因みに、コナーズレーバーは3回対戦しており、その全てでコナーズがストレート勝ちを収めている。
しかしそのいずれも1975年以降の対戦であり、時代的に順当な記録であったといえる。



【2000年代前半史】

 
70年代前半と同じような状況が実は2000年代前半にもあった。
期間は2000-03年。同じく4年という期間である。
サンプラス時代フェデラー時代のちょうど狭間にあたる時期だ。

全豪全仏全英全米マスターズNo.1
2000年アガシクエルテンサンプラスサフィンクエルテンクエルテン
2001年アガシクエルテンイバニセビッチヒューイットヒューイットヒューイット
2002年ヨハンソンコスタヒューイットサンプラスヒューイットヒューイット
2003年アガシフェレーロフェデラーロディックフェデラーロディック

やはり各年ともグランドスラム優勝者はバラバラである。
そしてグランドスラム1回だけという一見さんが多いのがこの時代の特徴だ。
イバニセビッチ、ヨハンソン、コスタ、フェレーロ、ロディック。「この時代」に限定すればサフィン、フェデラーも)
4年間でのグランドスラム優勝者は総勢11人と70年代前半の7人を大きく上回っている。
誰でもグランドスラムに勝てるという印象が少なからずあり、どの大会も本命不在という状態であった。

しかしテニス界全体としては、70年代前半のほうが混沌のイメージは強いのではないだろうか。

2000年代は、たしかにグランドスラムではかつてないほどの混沌だったといえるのもの、
マスターズ優勝者がその年のNo.1になっているのは大きい。03年のみ優勝者は2位だったが、
最終的にきちんと決着がつけられたという安定感を感じ取ることができるのだ。

また、70年代前半は、その前後の覇者であるレーバーコナーズがグランドスラムで優勝していないが
2000年台前半に関してはサンプラスフェデラーが優勝者として顔を出している。その点でも少しイメージが違う。
レーバーコナーズの年齢差が、サンプラスフェデラーのそれよりも大きかったというのがポイントであり、
同じ4年間のブランクとはいえ、やはり70年代のほうが2つの最強時代の間が開いていたという印象を強くしている。

両時代の選手を当てはめてみると大体以下のようになるだろうか。
サンプラス = レーバー(旧王者)
フェデラー = コナーズ(新王者)
アガシ = ローズウォール(両時代にまたがるベテラン)
ヒューイット = ニューカム(この時期の最強選手)
クエルテン = ナスターゼ(同じく最強のクレー巧者)

最後に、ここで両時代に用いた「混沌」という表現。これについては異論もあるかもしれない。
立派なニューカム時代であり、そしてヒューイット時代であった
という見方も決して間違いではないと言えるからだ。
しかし、前後の4人が築いた時代があまりにも巨大であるため、
テニス史上の大きな存在になりえてないというのも止むを得ぬ評価なのではないだろうか。


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