【ウィンブルドン現象】


ウィンブルドン現象(またはウィンブルドン効果)という言葉がある。

競技そのものは盛んだが、地元の選手が活躍しない状態を指すものだ。
これはテニス以外にも使える言葉としても広まっている。

ここ半世紀の英国テニス界を象徴する実に不名誉な言葉である。
こんな言葉が定着してしまうほど、20世紀後半の英国テニス界は低迷していた。



【フレッド・ペリー】



英国史上唯一にして最高の選手はフレッド・ペリーであろう。
ペリーは1930年代にウィンブルドン3連覇を含めグランドスラム8大会で優勝。
全てのグランドスラムで優勝を経験するいわゆる生涯グランドスラムの史上初の達成者となった。
ペリーの活躍については【対決!ペリーvsバインズ】を参照のこと)

しかし、ペリーの後、英国テニスからは優れた選手はなかなか現れなかった。



【ヘンマンの登場】


そんな英国テニス界に、地元の期待を背負う選手が現れたのは、
ようやく1990年代になってからのことであった。
ティム・ヘンマンの登場である。実にペリーの活躍から60年が経とういう頃であった。

ヘンマンの人気は高く、
フレッド・ペリー以来の快挙「ウィンブルドン制覇」を地元のファンは熱望した。
いや、地元のファンだけではあるまい。
パワーサーブでネットを取るスタイルが主流となっていた90年代テニス界にあって
ヘンマンはクラシカルなネットプレーを貫いた数少ない選手の一人だった。
ラフターのような身体能力も、サンプラスの何でもこなすショットもなかったが、
ただ、オーソドックスにネットに詰める姿には、応援せずにはいられない何かがあった。

しかし、ヘンマンにとっては準決勝が、そしてサンプラスが壁であった。
初期に比べるとストロークやリターンを改良し、サーブの威力も増していったのだが
準決勝、そしてサンプラスという壁は非常に厚いもので、破ることができなかった。

 
2001年はそんなヘンマンにとって最大のチャンスが到来した年だったといえるだろう。
目の上のこぶともいえるサンプラスが4回戦で敗退したのだ。
この不敗の王者を倒したのは、まだ若きロジャー・フェデラーであった。
ヘンマンは、続く準々決勝でこの大金星を挙げた若き選手と戦い見事に勝利を収めた。


魔の準決勝に進出したのだ。相手は、やはりサンプラスに阻まれ続けてきたイバニセビッチだった。
強敵ではあるが、それまでの対戦でヘンマンイバニセビッチに負けなしだった。
試合は熾烈を極めたが、ヘンマンが徐々にペースをつかみ、
やがて自我が崩壊したイバニセビッチから第3セットを「6-0」で奪うなど、勝利を目前にまで手繰り寄せていた。

しかし、ウィンブルドン特有の不幸(見方によっては幸運なのだが)が襲い掛かる。
突然の雨。完全にヘンマンに傾いていた試合は中断を余儀なくさせられた。
再開後、冷静さを取り戻していたイバニセビッチはそこから奇跡的な挽回をみせ
結局ヘンマンはまたも準決勝で敗北を味わうことになってしまった。


因みに翌年の2002年にもヘンマンは準決勝に進出したが、今度はヒューイットに敗れた。
敗戦後、まだまだその後のヘンマンに期待したいという声も聞かれたが、
新時代のストロークスタイルで戦うヒューイットに成すすべもなく完敗したヘンマンを見て
残念ながら英国の悲願は潰えてしまったのだろうと感じたものだった。

2007年、ヘンマンは引退を発表した。
これにより英国の悲願は次代の選手に持ち越されることとなった。



【その他の英国選手】

《グレッグ・ルゼドゥスキー(Greg Rusedski)》

ヘンマンよりも1歳年長の選手である。
元々カナダ出身であり、後に帰化した選手なので純粋な英国選手ではない。
ウィンブルドンでの成績は準々決勝まででありヘンマンほどの期待が寄せられたわけではなかった。
ルゼドゥスキーはそのビッグサーブで知られた選手だ。
ロディックが出てくるまでは世界最速のサーバーといわれていた。
そのためサーブだけの印象も強いが、全米では1997年に決勝に進出しているし生涯勝率も60%を記録している。
生涯タイトル数15はヘンマンの数字(11)を上回っているから、
ウィンブルドンに限定しなければヘンマンに劣らぬ選手であるといえる。
ウィンブルドンで活躍しなくては一段低く見られてしまう風潮がここに現れている。
2007年に引退を表明した。(引退時にブログで取り上げた記事



正直、ペリーヘンマンの間に特筆すべき選手はいない。
しかし、一人だけ敢えて取り上げておきたい選手がいる。


《ロジャー・テイラー(Roger Taylor)》

1970年代のロジャー・テイラーという選手だ。
最高ランクは11位。生涯成績は273勝199敗(57.8%)、タイトル獲得は6。
勝率50%を超えているのはなかなかだが、特筆すべき成績ではない。

しかし、この選手には2つの勝利がある。
まず、1970年ウィンブルドン4回戦でロッド・レーバーからあげた勝利。
当時のレーバーは年間グランドスラムを達成した直後の
文字通り最強の選手でありウィンブルドンも2連覇中だった。
まさか伏兵の地元選手が金星をあげるとは予想されなかったことであろう。

2つ目の勝利は1973年のウィンブルドンだ。
この年第4シードだったテイラーは準々決勝でボルグと対戦しフルセットの末勝利を飾った。
この時のボルグはウィンブルドン初出場であり、
まだ名前も知られていなかったから大きなニュースではなかったかもしれない。
しかし、今にして思えば大勝利であった。
ボルグは生涯5セットマッチに滅法強く、その成績は28勝4敗というものだった。
わずか4回しか負けていないのである。その最初の敗戦を経験させたのがテイラーだったのだ。
(因みに残りの3つは、1974年のナスターゼ、1980年のマッケンローレンドル



【ウィンブルドン現象、ひとまずの終焉へ】


2013年、イギリステニス界に激震が走った。
アンディ・マレー、スコットランド出身のこの選手が遂にウィンブルドン優勝を果たしたのだ。
若くしてイギリステニス界の星として登場したマレーは、幾度もウィンブルドン優勝の期待を背負ってこの難題に挑み続けた。
しかし結果は芳しくなく、決勝進出も出来ずにヘンマンの再来に過ぎないのかという評価もくだされたほどだった。
そうした重圧を背負い続けた中、遂にその夢をかなえたのは2013年のことであった。

予兆は前年にあった。
2012年、マレーはウィンブルドンで初めて決勝に進出し、フェデラーと対戦した。


超えなければいけない壁としてはあまりにも大きい史上最強の選手である。
かつて若き日にはヘンマンに退けられていたフェデラーも、この時は生きながらにして伝説とも呼べる存在となっていた。
結果、優勝には手が届かず、マレーは表彰台で涙を流した。

しかしそれで物語は終わらない。2012年はオリンピックイヤーであった。しかも開催地はロンドンである。
奇しくもテニスの会場はウィンブルドンに設定された。万全のリベンジの場所が用意されていたことになる。
マレーは雪辱を果たすべく勝ち上がり、ここでも決勝に進出した。
相手となったのはまたもロジャー・フェデラー、この不滅の英雄はマレーにとって絶対に越えねばならぬ壁なのだ。
ここでマレーはリベンジを果たすことに成功する。
会場こそウィンブルドンとはいえ、この勝利の称号はあくまでも金メダルであり、ウィンブルドン優勝ではない。
しかし、この場で優勝を収めたということはマレーにとって、また地元の多くのファンにとって大きな力になったことは間違いないだろう。
翌2013年、マレーは遂にウィンブルドンで優勝を果たしたのだ。
フレッド・ペリー以来、実に77年ぶりの快挙である。

イギリステニス界を襲った長い暗黒時代もひとまずは明るい日差しに包まれたといっていいだろう。
しかし、油断をするとまたマレー以降77年間優勝者が現れないかもしれない。
正直の所マレー優勝時点でそれに続くイギリス人選手はいないから、
一度の優勝、一人の優勝だけで完全に「ウィンブルドン現象」という言葉が払拭できたとはいえないだろう。
あくまでもひとまずの終焉ということで今後の状況を注視していきたい。



【もう一つのウィンブルドン現象】

さて、いわゆるウィンブルドン現象とは
これまで見てきたように英国選手の活躍の度合いを示す言葉である。

しかし、ここで敢えて「もう一つのウィンブルドン現象」と呼びたくなるものを指摘したい。
それはすなわち「テニス= ウィンブルドン」という考え方の浸透である。

ある記事で、テニス選手の一行紹介のような説明を目にしたことがある。
(昔の記事なのでうろ覚えであることをご了承いただきたい)

ベッカー:ウィンブルドンで最年少優勝を含め3度優勝。
レンドル:80年代に活躍したがウィンブルドンでは優勝できなかった。
キャッシュ:1987年のウィンブルドン覇者。
イバニセビッチ:ビッグサーバー。2001年ウィンブルドン優勝。
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言いたいことはわかっていただけると思う。
これではレンドルが一番弱い選手に見えて仕方がない。

レンドルのウィンブルドンについては、
 かつてブログで考察大会が繰り広げられたことがある。是非そちらもご参照を。


またそこでは古い選手の説明もあったのだが、ローズウォールについて
「長年にわたって活躍したが何故かウィンブルドンには縁がなかった」と説明し、
ご丁寧にも「無冠の帝王」などという異名まで紹介していた。

これを書いた人間には【ロッド・レーバー最強説】【対決!レーバーvsローズウォール】を見せたくなる。
若くして4つのグランドスラム、プロ大会での最多優勝記録、30代になっても更に4つのグランドスラム。
こんな偉大な活躍をした選手をつかまえて「無冠の帝王」とはあまりに失礼な呼称ではないか。

しかし、それも仕方がないのだ。
ウィンブルドンはテニスの聖地である。それほどの魅力を持っているのは間違いない。
他のグランドスラムでいくら優勝しようとウィンブルドン一回の評価はもらえないことすらあるのだ。

もちろん、実際には他のグランドスラムとウィンブルドンとの間に差はない。
伝統の差はあっても現在では全て同列の大会である。
当サイトではその辺間違いがないようにしていかなくてはならないが、
人々に浸透した評価というのはデータ通りにはいかないものなのだ。


こういった例はまだまだある。

 
【対決!コナーズvsボルグ】でも述べているが、コナーズボルグの力関係も、
ウィンブルドンを中心に考えているがために、誤解をしてしまってる人が多いようだ。

コナーズ、1974年ウィンブルドン優勝。
ボルグ、1976年-1980年ウィンブルドン5連覇。
ボルグ引退後の1982年、コナーズが2度目の優勝。

これだけを見ると、1974年にはコナーズが最強だったが、
直後にボルグが最強の座を奪い取ってしまったと考えても不思議ではない。
しかし実際には1979年までコナーズのほうが上位の選手であったのだ。


また、当サイトではすっかりお馴染みだが、パンチョ・ゴンザレスという陰の最強選手がいる。
詳細は【パンチョ・ゴンザレス最強説】を見てもらえればわかると思うが、
戦後のプロテニス界で散々アマチュア選手を打ち負かした選手である。

ゴンザレスはウィンブルドンの優勝経験がない。
そのためゴンザレスを擁護する人々は、ことさらウィンブルドンとゴンザレスを結び付けようとする。
もしもゴンザレスがウィンブルドンに出ていれば10連覇は軽かったなどといった意見が出る。

言ってる内容もわからないではない。1950年代のほとんどのウィンブルドンチャンピオンは、
プロ入りした後にゴンザレスにコテンパンにやられているからだ。
しかし、だからといって10連覇などというのは夢物語に近いのではあるまいか。

当時、グランドスラムより遥かにレベルの高いプロ大会があり、
ゴンザレスはそこで最強を誇っていた選手。それでいいではないか。
無理にウィンブルドンに例えなくても、その偉大さは分かる人には分かるのだから。


最後に、ラフターが引退(宣言では無期限休養)した当時のあるテニス雑誌での記事を紹介したい。
おぼろげだが、こんな書き方だった。

「あまり馴染みがないが、ラフターという選手が引退した。
 この選手は大きなタイトルこそ無いが、実はランキング1位の経験もあった。」


開いた口がふさがらないとはこのことだった。
一般紙のスポーツ欄ならともかく、れっきとしたテニス雑誌だというのに。
当時テニス誌を読んでいる人でラフターを知らない人はいなかったろう。
まるで知られざる選手を取り上げたかのような口ぶり。
そして「大きなタイトルが無い」というとんでもない一文。
賞金総額最高の大会である全米2連覇の選手をつかまえて「大きなタイトルが無い」とは何を寝ぼけているのだろうか。
この記事を書いた記者にとってはウィンブルドン以外はどうでもいい大会だったのだろうと思わせる内容であった。
これ以降私はこのテニス誌を読まなくなった。


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